松木朝臣(まつきあそん:1913~1945)
系統:独立系
師匠:
弟子:
〔人物〕大正に生まれた。呉服商勢州屋松木金次・ミツの三男、六男三女の兄弟妹がある。商業学校を卒業後、高久田脩司の家の番頭を勤めた。郷土玩具に関連した趣味を持ち、須賀川在稲田の須賀川羽子板の収集で知られていた。昭和13年橘文策により報告され、〈こけしと作者〉で写真紹介された須賀川こけしは同地の牡丹園で販売されていたが〈木形子・第1号〉、高久田脩司の調査によると、牡丹園の物産陳列所の出品者は松木朝臣であったので、同人に会い聞くと、岩瀬郡湯本村の小椋某の作だと言ったとある〈木形子・第4号〉。昭和15年8月深沢要の現地調査ではこの小椋重蔵は鉄道事故で死んだが、須賀川こけしとは関係なく、牡丹園のこけしは松木朝臣が同地の佐久間木工場の職人に挽かせ、自身描彩したとされた〈鴻・第2号〉。昭和15年11月円谷妙と結婚、一子典子を生んだが応召、昭和20年7月13日フィリピンルソン島キアンガン北方20キロ、フンドアン方面
で戦病死した。
〔作品〕深沢要の報告では須賀川こけしの描彩者ということになるが、鳥居敬一の現地探訪では違った解釈をしている〈こけしノート・2〉。鳥居敬一が未亡人や実兄に会い聞いたところでは、本人と友人の安藤儀三郎が同地の佐久間木工所に挽かせ、二人で絵付けしたという。しかし、須賀川古型と本人がいっていた大小二本(〈こけしノート〉所載)は鳥居敬一の解釈では湯元の小椋木地に土地の絵師に絵付けさせたものとされる。鳥居見解では松木と安藤は牡丹園販売こけしの描彩はしたが、須賀川古型に関しては単なるプロデューサーにすぎない。須賀川は江戸末期より庶民文化の発達した商人町で文人画家が多く、板絵羽子板の製造から見ても錦絵の影響の多い土地柄だという。しかし、〈こけしノート〉の古型二本も、〈こけしと作者〉の二本も描彩は同一人のものと思われる。〈こけしと作者〉所載こけしは大小二とおりある。尺以上の物は黒蛇ノ目、撥状前髪、丸鼻、一種の鯨目に赤目張、黒い襟に中央赤帯を入れ、波紋を配し下方に大きな牡丹が描かれる。八寸級のほうはオカッパ頭でロクロ線多く、紫や赤の牡丹花を描いた。表情はクラシックで江戸風の情味を持ち、変わった風情は駄作でないことを示している。
鹿間時夫は、松木朝臣名義のこけしについて〈こけし辞典〉に次のように書いて、一定の評価を与えていた。「これを新型とすることはできず、木地が会津か土湯かの木地師製であれば、描彩が松木であれ、未知の絵師であれ、鯖湖と大差ないことになるかもしれない。須賀川こけしは橘文策によって紹介されたのが少数残っているが、鳥居敬一の〈こけしノート〉写真のは細長い大寸物と胴に段のある小寸物で、タッチ細かく三白眼の傑作である。須賀川こけしを正当でない準こけしのように解する人もいるが、情味に関するかぎり現在の一般型や新型の影響を受けた甘美一方の作よりは、格段に古典的で本格的である。」
なお高久田氏のその後の報告〈こけし手帖・33〉は旧報と大差ない。
〔20.9cm(昭和13年頃)(日本こけし館)〕 深沢コレクション
〔右より 20.2cm、25.3cm(昭和13年頃)(鹿間時夫旧蔵)〕
〔伝統〕独立系。
荒川洋一が朝臣型を復元したことがある。
〔参考〕