松田精一(まつだせいいち:1899~1981)
系統:南部系
師匠:松田徳太郎
弟子:松田弘次/松田正一
〔人物〕 明治32年10月5日、岩手県南岩手郡東中野村穀町(現在、盛岡市清水町)木地挽き松田清次郎・トクの長男に生まる。
松田家は常陸屋と称する商家で初代仁兵衛(天保15年1月11日没。65歳)、二代和七(安政4年1月7日没。没年齢不明)、三代和助(明治43年6月12日没。68歳)、四代清次郎と続き精一は五代目にあたる。木地は父の代からで、これは和助の妻ヒサと木地師安保彌次郎の妻ナヲが姉妹であった縁による。彌次郎は明治27年12月14日に42歳で亡くなった。また父清次郎も明治33年精一が2歳のとき31歳で亡くなった。そこで精一は叔父松田徳太郎について木地を修業した。
大正8年弘前第32連隊に入隊、シベリアヘ渡り翌9年帰郷後はずっと木地業を続け、「穀町の木地屋」と呼ばれていた。車のロクロ・手摺・柄杓・根付・尻ガイ玉などを多く作ったという。安保彌次郎の長男一郎もこの松田木工所で働いていた。
妻トキとの間に生まれた二男弘次は、昭和28年頃より精一、安保一郎について木地の修業を始めた。
精一のキナキナ作者としての歴史は古いが、紹介されたのは比較的遅く、昭和40年の三彩社〈こけし〉が初出文献であった。長く盛岡市清水町1-25に住み、川徳百貨店裏の松田木工所で次男弘次と共に木地を挽き続けた。
昭和56年10月5日没、行年83歳。
次女の和子は佐藤家に嫁いでいたが、精一の死後、兄の弘次について木地の技術を学び、キナキナを作った。
なお、松田精一の家には安保彌次郎の父彌市郎が書き残した木地寸法帖(元治元年子七月)が伝えられていた。
〔作品〕一貫して昔ながらの無彩のキナキナを作り続けた。戦前までの盛岡ではおもちゃ箱の中に必ずキナキナの一、二本は入っていたと言われており、そうした需要に応えて作り続けていたようである。
胴のすその部分は、比較的細く作られているが、「幼児が握れる太さが、本来のキナキナだ」と語っていた。
〔右より 10.0cm、12.0cm、15.0cm、12.0cm(昭和42~44年)(橋本正明)〕
〔伝統〕南部系
〔参考〕