松田徳太郎

松田徳太郎(まつだとくたろう:1889~1964)

系統:南部系

師匠:煤孫茂吉

弟子:

〔人物〕明治22年11月2日、盛岡市穀町の木地挽き松田和助、ヒサの二男に生まる。長兄は清次郎、姉にエサ、ハル、ハナがいた。明治33年12歳のとき、兄清次郎が没した。父和助は生存していたが高齢であり、また清次郎と煤孫茂吉が考案したダライバン式の足踏みロクロは挽かなかったので、徳太郎は花巻に帰っていた煤孫茂吉について木地を修業した。兄弟弟子には安保一郎、佐藤勘次郎がいた。
盛岡に戻って長く木地業を続け、〈日本の郷土玩具・東の部〉で寺沢政吉と並んで作者として紹介された。
昭和39年12月27日脳溢血のため死亡、行年75歳。戒名、百道院照徳居士。
妻女センとの間に長男正一がいて、正一もキナキナを作った。
 

〔作品〕基本の型は4寸ほどのキナキナである。大正から昭和にかけて、盛岡のキナキナは多くの郷玩蒐集家の手に渡っているが作者名は確認されていない。当時の作者は、松田徳太郎、精一、安保一郎、寺沢政吉などであるが署名のない時代の作者名鑑別は難しい。
下掲は〈こけしの美〉で紹介された鹿間時夫蔵の長頭のキナキナもこうした古キナキナの一本であり、作者名は推定の域を出ないが、一応徳太郎で通っている。長頭が乳首の形状で、キナキナとしては趣があり、戦後大沼俊春らによって再現された。


〔11.8cm(昭和10年頃)(鹿間時夫旧蔵)〕

描彩の加えられた小寸作り付けは〈こけし鑑賞〉に鹿間時夫蔵が紹介され、注目されるようになった。昭和16年仙台の桜井玩具店で売られたもので、下掲作品のように赤、青のロクロ線を加えた胴に、剽軽な表情の頭部をつけたものであった。おそらく描彩者は別人であり、南部系の伝統的なこけしではないが、戦前のこけしブームの時期に南部系こけしに描彩されたものの中では実に秀逸である。この手で6寸、尺という大寸ものもあるが、さすがに尺近い大寸はかなり異様である。
松田精一の孫の松田晋がこの型を再現した。


〔13.9cm(昭和16年)(高橋五郎)〕

戦後もキナキナを小数ながら作り、作品も知られている。

 〔伝統〕南部系

 

〔参考〕

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