山谷権三郎

山谷権三郎(やまやごんざぶろう:1901~1965)

系統:津軽系

師匠:山谷藤吉

弟子:山谷清/山谷敏一/山谷きよ

〔人物〕 明治34年9月20日、青森県温湯の木地業山谷藤吉、すみの長男に生まれる。山谷の家は代々家名太兵衛(多兵衛)でおそらく家督は、この家名を踏襲していたと思われる。父藤吉の戸籍表記は太兵衛である。権三郎には弟に藤一、耕一、藤作がいた。
権三郎は父藤吉について木地を学んだ。昭和10年木村弦三の〈陸奥のこけし〉で名前が紹介されたが、その解説では「山谷の祖はやはり多兵衛と呼び、二代目徳次郎から永吉、東吉(藤吉が正しい)、それに現五代の多兵衛となってゐます。現多兵衛の兄の権三郎は木地挽き業に携わってゐませんが、こけしは矢張り多兵衛と同様のものを作ります。」と書かれている。
この記述を信じれば、弟のいづれか(おそらく藤一)が太兵衛を継いで、木地も挽き、こけしも作ったと思われる。多兵衛という表記は、木村弦三が〈陸奥のこけし〉に記述し、橘文策の〈木形子〉〈こけしと作者〉もこの表記に従ったため、こけし蒐集界に広がったと思われる。
大正11年、浅瀬石の成田ハルと結婚、清、ハナ、つる、稔、チヨ、敏一、三男三女もうけたが、稔は4歳で夭折した。ハルが亡くなった後、昭和15年南津軽郡山形村の渡辺きよと再婚、敏光、モチエの二子をもうけた。結婚後、きよが権三郎のこけし描彩を受け持つようになった。長男清と敏一は中学校を卒業するとしばらく木地を挽いてこけしを作ったこともあった。戦後は病がちでほとんど木地を挽けず、毛利専蔵の木地にきよが絵付けをし、権三郎こけしとして出していた。
昭和40年4月3日没、行年65歳。

山谷権三郎 昭和38年

〔作品〕 弘前博物館に収蔵されている木村弦三コレクションには昭和10年以前の権三郎と多兵衛(太兵衛)名義のこけしがあるが、非常に良く似ていて区別が付かない。また、描彩にもいくつかのパターンがあり、権三郎と弟の挽いた木地に同一人あるいは複数の描彩者が描いて居たのかもしれない。きよの言によると、「自分が山谷の家に来るまでは、権三郎も描いていたようだ」というから、権三郎の手になるものも存在するだろう。
下掲は深沢コレクションの権三郎であるが、おそらく山谷きよの極初期の描彩と思われる。椿模様は、きよが水墨の絵を見て描き始めた独創だと言っていた。
 

〔 18.5cm (昭和16年)(日本こけし館)〕 深沢コレクション

下掲の戦後の権三郎名義は、毛利専蔵木地に山谷きよが描彩して権三郎こけしとして世に出したもの。

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〔 18.3cm(昭和39年)(高井佐寿)〕

〔伝統〕 津軽系温湯亜系 
山谷権三郎の型は、山谷きよに習った北山盛治とその後継者たち、そして本間直子等が作っている。また平成12年ころ三男敏一が北山盛治のロクロでこけしを作ったことがある。

 

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