山谷太兵衛(やまやたべえ:生年不明~)
系統:津軽系
師匠:山谷藤吉
弟子:
〔人物〕山谷家は青森県温湯鶴泉に移ってきて木地屋を開業し代々太兵衛を名乗っていた。 木村弦三著の〈陸奥のこけし〉で多兵衛と表記されて以来、多兵衛でよく知られているが戸籍表記では太兵衛が正しい。こけし工人で知られる山谷権三郎の父藤吉、祖父永吉、曽祖父徳次郎も太兵衛と呼ばれていた。徳次郎の父が初代太兵衛で、権三郎の弟が五代太兵衛を継いだ由が 〈陸奥のこけし〉解説に記されている。ただ鹿間時夫は長男が太兵衛を継ぐのが自然で、「権三郎=五代太兵衛」説をとっている。
あるいは、父の藤吉=太兵衛が昭和10年に亡くなるまでは、山谷一家で作られたこけしは製作者如何に関わらず太兵衛名義で出されいたのかもしれない。
〔作品〕木村弦三コレクション中には権三郎名義のこけしと弟多兵衛(太兵衛)名義のものが存在するが、その形態、描彩には限りなく近いものがあり、その区別は難しい。
また太兵衛名義のこけしでも、おそらく描彩者が違うと思われるものがある。
下掲二本はいずれも多兵衛(太兵衛)名義であるが、面描者は違うであろう。鹿間時夫は〈こけし辞典〉で、右端は古拙であり、父の藤吉=太兵衛ではないかとしていた。
〔右より 24.2cm(昭和8年)(鹿間時夫旧蔵)、18.2cm(昭和8年)(中屋惣舜旧蔵)〕
下掲は、権三郎の手になり、山谷多兵衛(太兵衛)名義のもっとも典型的な様式とされるが、後の津軽の工人たちが作る多兵衛型は概ねこの様式を目標としている。
昭和15年に山谷権三郎はきよを後妻に迎え、以後きよが描彩を担当するようになったので、権三郎名義のこけしは太兵衛調から離れたこけしの様式に変わった。
〔伝統〕津軽系温湯系列
太兵衛(多兵衛)型は一種のスタンダードの型になって、佐藤善二、佐藤佳樹、毛利専蔵、北山盛治、北山真由美、北山裕美などが多くの工人が太兵衛(多兵衛)型を復元した。
〔参考〕