照井音治(てるいおとじ:1885~1939)
系統:南部系
師匠:小原直治
弟子:藤井梅吉/佐藤英吉
〔人物〕明治18年12月5日、岩手県稗貫郡湯口付下志沢の農業照井奥太郎の長男に生まれた。
明治21年、音治の父奥太郎は3歳の音治をつれて芸妓と駈け落ちし、宮城県青根温泉へ行って旅館佐藤仁右衛門の番頭となった〈こけし手帖・31〉。そのため音治は青根で成人し、明治35年18歳のとき小原直治について木地を学んだ。徴兵検査後、鎌先、東京、西鉛、鉛、花巻などを転々としたといわれるが、鎌先、東京での消息は不明である。
西鉛、鉛の時代の音治の動静について、土橋慶三は西鉛の旅館藤友で職人をした年代を明治末期か大正初期、鉛温泉の藤井梅吉の母屋の一角を借りて木地を挽き、梅吉に木地の手ほどきをしたのを大正中期か末と推定している。
大正の終わりころ、音治は家族とともに花巻へ移り、大正15年5月から、君塚柳造の経営する南部商会の職長となった。このころの照井音治は、頬骨が高く、やせて人相が悪く、君塚柳造の息子たちからはガンジーとあだ名されていた。飯む、打つ、買うの三拍子で、けんかもすれば、女性関係も派手といった具合に非常に荒れた生活をしていたという。
南部木工には遠刈田から佐藤好秋や佐藤正吉も来て働いたことがあったが、景気が悪く、職人への給料の支払いも滞りがちだったので長くは続かなかった。ただ音治にだけは、払わないと酒をのんで君塚の家へどなり込むために払ったという。また、君塚柳造は肥満していて、当時の映画の主人公怪盗ジゴマに似ていることから、ジゴマをなまってジマンと仇名していたという話もある。
このような破天荒な生活のためか、昭和3年春、大喀血をして肺浸潤と診断され、医師から匙を投げられた。しかし妻まさよが和裁の内職で家計を賄い、音治は療養に努めることが出来た結果、間もなく小康を得ることができた。
そして、それまで住んでいた君塚の向かいの借家から駅前の箱崎商店で買った家に移った。箱崎商店は妻まさよ(昭和28年没、69歳)の姉の嫁ぎ先であった縁による。まさよは後妻であったが、若い頃は東京で大隈重信候の家の女中頭を勤めていたという才女であった、
ロクロヘ上れるようになった音治は、仕事をしながら摂生を続け、しだいに回復した。この病気がきっかけとなってバプテスト教会に入会し、熱心なクリスチャンとなった。酒も煙草もやめ、人に対しても優しくなり、以前の音治を知る人からは、これが照井音治かといわれるほど人柄が変わったともいう。
至るところで福音を説き、伝道して歩いた。当時一緒に働いていた佐藤英吉も4年間教会へ連れて行かれたと語っていた。バプテスト教会入会は昭和3年10月18日で、翌年11月3日阿部牧師の司祭で洗礼を受け、妻まさよは昭和8年10月29日入会、翌年洗礼を受けたという。
その後、不況のため昭和11年に南部商会は休業、翌12年に君塚木工所として再開したが、この失業時代に音治はこけしを最もたくさん作ったという。
君塚木工所再開後問もなく日華事変が始まり、軍需景気が起きて、卓盤の製作をはじめ、翌年には陸軍省から挓座(タクザ)、砥栓(テイセン)を受注、佐藤英吉を北海道から呼び戻して、共にラッパ鉋、にぎり鉋などによる工程を工夫し、これで今までの不況を突破できると張り切ったが、その後間もなく、昭和14年4月15日、花巻の銭湯蒡の湯で心臓麻痺により急逝した。行年56歳。
なお、深沢要が音治に会いに花巻を訪れたのは、音治の死の二日後であったという。その時、駅前の箱崎商店には音治のこけし30本ぐらいが売れ残っており、深沢要はそれを全て買い取ってきたと遺稿集に書いている〈こけし手帖・31〉。
〔作品〕音治がこけしを最も多く作ったのは、南部商会が閉鎖して君塚木工所として再開するまでの間、昭和11~12年であり、現存するものの大部分はこの時期の作である。
例外的に古いものは、石井眞之助が東北の女学校の校長宛に手紙を書いて、女生徒から要らなくなった古いこけしを集めたとき、送られてきたものの中の一本で、下掲写真の9寸6分である。
黒くなって描彩の細部はわからないが、大きな頭部と胴は嵌めこみになっていて、クラクラと揺らすことが出来、南部の要素を取り入れている。さらりと流した鬢に切れ長の眉と瞳が描かれ、鼻は垂れ鼻、胴は五段の重ね菊である。鉛で藤友あるいは梅吉の母屋でこけしを作っていたときの音治の作と推定されている。
次に古いと思われる作は下掲の西田峯吉蒐集の6寸5分、西田はこのこけしを水沢で入手したという。〈こけし手帖・31〉で紹介された。花巻の駅前に移った頃のものかも知れない。大寸の頭部の大きな音治に比べると、頭も小さく、それに比例して胴も細い。同様の作例は〈こけしと作者〉の橘文策蒐集品中にもある。
〔19.7cm(昭和初期)(西田記念館)〕西田コレクション
下掲は昭和11年から12年、南部商会が休業となって君塚木工所が再開されるまでの休業期間中に製作したもので、現存する音治の大部分はこの時期の作である。
下掲は〈こけし事典〉原色版に載った久松保夫旧蔵の作。
下掲は深沢コレクションのもの、深沢要が音治の死の二日後、箱崎商店で売れ残り30本を買い取ってきたときのものであろう。日本こけし館の深沢コレクションにはこれを含めて5本の照井音治が保管されている。深沢要は音治のこけしについて「そのこけしは木地の仕上げに、また胴模様の構成に独自の味を出している。優美さにおいても得がたいものである」と書いていた。
〔24.5cm(昭和14年)(日本こけし館)〕 深沢コレクション
〔伝統〕南部系
通例として南部系に分類されているが、木地の修業やこけしの習得から見ると、青根の小原直治の影響が大きい。一方、南部系の産地でこけしを作り、首がくらくら揺れるように作るなど南部の様式も加えている。遠刈田と南部の融合した様式というべきだろう。
〔参考〕
- 土橋慶三:名品こけしとその工人・第13回 花巻・照井音治〈こけし手帖・31〉(昭和35年6月)
- 深沢要:深沢要遺稿集:44 照井音治〈こけし手帖・31〉(昭和35年6月)
- 木人子室:南部風影