小林家記録書

山形の小林倉吉が明治41年正月より書き始めた家業の記録書。


小林孝太郎 机の上に置かれているのが小林倉吉執筆の記録書

〔内容概略〕 以下に記録書写本の写真をもとに内容を記す。
まず業祖としての惟喬親王を記述した「序」があり、次に記録書の記述を行う趣意をのべる下掲写真の「記録書」の一文が来る。ここで注目すべきは三代目という記述である。
初代南條徳右衛門、二代小林倉治、三代目が倉吉という意か。

記録書趣意

「記録書」の次には下掲の「當家業ノ因記」が記述される。
おおよその文意は次の通りである。「私の養父である九十治という人は明治初年より以前に、木地業を宮城県作並において営み、それ以来父がこの木地業を継いで明治元年山形のこの地に移って開業し、以後現在に及ぶ。時勢の変遷にも関わらず社会からの要求があるというのはこの木地業が優れているとするところで、一層勤勉に努力すべきである。その後、この私が木地業を継承したところ、明治30年末で当家の業に就くもの弟達および弟子達12人となり、それぞれがこの木地業をまもって、卒業後も本分を尽くし実績を上げている。これを将来の鑑としたい。明治45年4月記録する」
この記述の養父九十治に関する経歴の記述は実父倉治の事跡と完全に重なっている。この文は倉吉が記述して「以後余輩ノ相続ニ及ビ(その後、この私が木地業を継承したところ)」と来るから、九十治=倉治というように読める。そうでなければこの因記に父倉治への言及がないのがおかしい。
一方、〈鴻・3〉や深沢要遺稿集〈こけし手帖・46〉に、山形市旅籠町出身で作並で木地を挽いた南條九十治と言う木地屋がいて、小林倉治を養子にしたとあり、倉治は山形に帰ってから小林姓に戻したと書かれている。南條九十治については、その実情が明確になっていないのでいろいろな憶測があるが、この記録書の記述からは次のような二つの仮説をたてることができる。
仮説1:「倉治は作並時代に徳右衛門の養子となって南條九十治と名乗っていた。、山形に帰って小林姓となって明治元年ころ木地業を開業した。」この仮説の問題点は、実父倉治=九十治なのに何故養父九十治と書いているのかと言う点である。
仮説2:「倉治は作並に行って南條徳右衛門について木地を学んだ。徳右衛門は別名を九十治といった。倉治は、徳右衛門の死後慶応2年22歳で山形に帰って木地業を開業した。」この仮説の問題点は、記述者倉吉がなぜ徳右衛門=九十治を「吾が養祖父」ではなくと「吾が養父」書いたのかと言う点である。また「爾来父業を続き」で「爾来父倉治業を継ぎ」としなかったのか。
過去の聞書きには九十治と徳右衛門の混同、倉治と倉吉の混同等があって記述の混乱が生じた可能性がある。
いづれの仮説であっても、「倉治は山形旅籠町の紅屋清蔵の二男、万延元年16歳の時作並に行って南條徳右衛門について木地を学んだ。南條徳右衛門は慶應元年10月8日に65歳で亡くなった。倉治は、徳右衛門の死後慶応2年22歳で山形に帰り、明治元年ころ木地業を開業した。戊辰の役に際しては木製弾頭を挽いた。」という概略はある程度信頼できる。倉吉の當業三代目という記述は、初代南條徳右衛門、二代小林倉治、三代目が倉吉という意味になる。

当家業ノ因記

下掲は弟子の平賀謙蔵に関する記述、以下佐藤千代治、中野常治、佐藤小治郎、神尾長八、武田仁兵衛等の弟子達に関わる記述が続く。

平賀謙蔵記録

この記録書の原本は小林孝太郎の家に伝えられている。

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