南條九十治

〈鴻・3〉や深沢要遺稿集〈こけし手帖・46〉に、山形市旅籠町出身で作並で木地を挽いた南條九十治という木地屋がいて、小林倉治を養子にしたとあり、倉治は山形に帰ってから小林姓に戻したと書かれている。
また、小林倉吉が書いた「小林家記録書」の「當家業ノ因記」には「吾カ養父九十治ナル人」という記述がある。

当家業ノ因記

南條九十治については、その実態が明らかになっていない。

南條九十治の素性について下記のように幾つかの仮説がある。

仮説1:山形市旅籠町出身で作並で木地を挽いた南條九十治という人が実際にいて同じ町内出身で父を失った倉治を養子として作並に連れて行った。
仮説2:後の小林倉治が作並時代に南條徳右衛門の養子となって南條九十治と名乗っていた。
仮説3:山形市旅籠町の住人で近所の倉治を徳右衛門の養子に世話した人、また九十治自身も木地を挽いた。
仮説4:南條徳右衛門の徳右衛門は家名であり、名前が九十治であった。
仮説5:山形市内百姓町に居住した木地屋。

いづれにしても山形の小林倉治が木地を始める際にかかわりのあった人物で、作並と山形結びつける鍵となった人物である。

〔参考〕

  • 近松義昭:小林倉治と南城徳右衛門〈こけし手帖・696〉(平成31年1月)

 

 

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