〔人物〕大正7年11月11日、川連大館の木地師小椋泰一郎、たかの長男に生まれる。小椋捨次郎、勇三郎は弟。嘉市は父泰一郎について木地を修業したが、まもなく塗物師に転業した。
昭和16年頃、蒐集家の依頼によりこけしを少し作ったが、嘉市は木地のみを挽き、描彩は川連の蒔絵師沓沢利兵衛、瀬川忠作などに依頼していたという。
戦後、旋盤を使ってこけしの木地を大量に挽き、これにも瀬川忠作、吉三の健一(姓不朋・川連の蒔絵賃描き師)などに泰一郎型の描彩をさせていた。その後こけし製作から離れ、下駄屋や塗物の行商等を始めたものの昭和38年頃に廃業し、東京に出稼ぎにでた。昭和40年代中頃に帰郷し、川連漆器製作販売業を始めた。当初轆轤で木地も挽いて製品として販売していたが、こけしは挽かなかった。さらに漆器・仏壇販売業に転向したが、晩年に事業を息子に引き継いで引退した。
平成7年10月28日没 、行年78歳。
左より、小椋啓太郎、久太郎、泰一郎、嘉市 昭和15年 撮影:萩原素石
〔作品〕嘉市生前中に、嘉市名義のこけしがどういう状況で作られたかが詳しく調査されなかったので、本人木地か、描彩者は誰なのか依然はっきりしないものが多かった。
その中で下掲二本は、もともとは小椋泰一郎名義で蒐集家の手に渡ったもの。沼倉孝彦が小椋泰一郎の娘夫婦に確認した結果、木地は小椋嘉市、描彩は蒔絵師の瀬川忠作であることがわかった。袖の赤い袂を長く胴下まで垂らした独特の描彩であった。
〔 12.4cm 、25.5cm(昭和16年頃)(沼倉孝彦)〕 久松保夫旧蔵
下掲の二葉の写真、亀井昭伍蔵、沼倉孝彦蔵は小椋嘉市名義、描彩者は上掲の瀬川忠作とは異なる。誰の描彩なのかははっきりしないが、この亀井蔵・沼倉蔵二本の描彩者は同一人であろう。沓沢利兵衛の可能性もある。
戦前、川口貫一郎の企画で、山田猷人、鈴木凡太郎らが協力して昭和18年に頒布した袖珍こけし中に下掲のように小椋嘉市名儀の作があった。ただこれに嘉市の手がどう関わっているのかははっきりしていない。赤と緑の袂だけをべったりと胴下まで塗っていて、袂の強調は嘉市名義のこけしと通じている。作者不明の木地山系こけしの中にもこの種の作がある。
〔4.8cm(昭和18年11月)(村野斗史雄)〕 袖珍こけし77番
下掲も袂が胴の下まで紫で描かれており、この振袖調のこけしも嘉市であろうとされているが、実際の作者はわからない。
戦後の旋盤によるものは4寸ほどで泰一郎の型を写していたらしい。
また下掲のように、袖をべったりと赤、緑、あるいは紫などで胴下まで塗った意匠のものが戦後嘉市名義で作られた。
小椋泰一郎の長男で木地山初右衛門家の直系であり重要な工人であったが、嘉市自身は木地のみで、描彩はすべて他人であったといわれている。
〔伝統〕木地山系
小椋捨次郎、佐藤達雄、柴田良二、沼倉孝彦、本間功が小椋嘉市型を作る。