佐藤ふよ(さとうふよ:1863~1931)
系統:弥治郎系
師匠:佐藤久蔵/佐藤栄治
弟子:
文久3年11月7日、宮城県刈田郡宮村(遠刈田)の佐藤久蔵の長女に生まれる。長兄は久吉。久吉は遠刈田で二人挽きを習得していたが、明治18年田代寅之助が一人挽きを伝えたとき田代に就いて技術を習得した。長女ふよは明治12年7月に弥治郎の佐藤栄治と結婚した。
佐藤栄治は養父東吉から二人挽きの技術を習得していたが、従姉妹里うの夫である佐藤周治郎や、ふよの兄久吉から一人挽きの指導を受けた。
ふよが弥治郎に来たのは17歳のときであるが、おそらく遠刈田である程度の描彩は行っていたと思われる。佐藤栄治に嫁したあとも、義父東吉や夫栄治の木地に描彩を行った。墨、赤、青の三色を用いた手描き式の描彩で胴の裏に赤と青の線を五、六本つけていたという。ふよ直筆のこけしは残されていない。
栄治とふよの間には、伝内(戸籍表記は傳内)、勘内、長女某、まつ江、五月、好蔵の四男二女がうまれた。長女は夭逝したが伝内ほかは成育し、特に伝内、勘内はこけし作者として活躍した。ふよは昭和6年に亡くなった。行年69歳。
ふよのこけしは残っていないが、長男の伝内が記憶をもとにふよを再現したものは残っている。下掲は〈蔵王東のきぼこ〉に掲載され、母ふよの描法として紹介された。
佐藤伝内 〔15.5cm(昭和15年)(高橋五郎)〕ふよの描法
描彩は手描きで巻き絵は用いず、遠刈田の「こげす」と呼ばれた小寸作り付けとほぼ同じ手法である。伝内には養祖母とよの描法と称するこけしも作っており、弥治郎様式の成立過程を考察する重要な資料となっている。