佐藤子之助(さとうねのすけ:1891~)
系統:遠刈田系
師匠:佐藤久吉
弟子:
〔人物〕明治24年ころ宮城県柴田郡前川村(青根)の木地師佐藤久吉・りんの次男に生まれた。長兄は久助、弟に久蔵がいる。父久吉について木地を修業、こけしも作ったといわれる。明治45年ころ秋保へ行って佐藤三蔵の職人となった。子之助は秋保を去ってから遠刈田に移り大正中期には北岡商店(北岡木工所)で職人として働いた。その後、北海道へ渡って定山渓で没したといわれているが、詳細の経歴は不明である。没年不明。
〔作品〕菅原庄七の証言によると「子之助はこけしの挽き方はうまかったが、描彩のほうは、胴模様だけで顔は描かなかった」〈こけし手帖・50〉という。しかし、父の久吉は岡崎栄治郎や太田庄吉の師匠であり、こけしも盛んに作ったといわれるので、息子の子之助も青根時代はこけしも作り面描も行ったであろう。ただ子之助が秋保に来た頃は、庄七の面描の健筆振りには師匠三蔵も一目置いたといわれているから、庄七が一手に引き受けて描いていたかもしれない。
下掲は〈こけし鑑賞〉に山尾武治として紹介された秋保古作。子之助と吉雄の合作ではないかとする説もあって〈こけし辞典〉には佐藤子之助の項目に疑問符つきで掲載されている。ただし山尾武治であるという確証が乏しいのと同様に、子之助の手が加わった作という根拠もない。
久松コレクションを集成したグラフィックス社の〈こけしの世界〉には「秋保不明」として掲載されている。
〔伝統〕遠刈田系
〔参考〕