佐藤武雄

佐藤武雄(さとうたけお:1914~1973)

系統:遠刈田系

師匠:佐藤三蔵

弟子:佐藤円夫/佐藤武志/高梨節子

〔人物〕 大正3年6月22日宮城県秋保の佐藤三蔵、よしの長男に生まれる。小学校卒業後、昭和元年ころから父三蔵につき木地修業を開始した。この頃三蔵の仕事場では弟子の菅原庄七が働いていたので、実際の指導は庄七によるところが大きかった。昭和7年母よしの姉みよしの三男吉雄が三蔵の養子となった。みよしの二男が菅原庄七であるから、吉雄は庄七の弟であり、また武雄の5歳年長の義兄ということになる。
武雄は、昭和9年から郵便局に勤務するようになり、以後木地業を休止した。昭和14年に次女節子が、昭和17年に長男円夫が、昭和20年に二男武志が生まれた。
終戦後、昭和21年より再び木地業に復帰し、こけしの製作も再開した。円夫は昭和33年から、武志は昭和38年から木地の修業を開始し、親子でこけしの製作を続けた。次女節子は高梨家に嫁したが描彩のみ行った。
 昭和48年4月14日没、行年60歳。

佐藤武雄 昭和36年

〔作品〕戦前作は、就業期開か短かったため残っていない。戦後は数多く作り、描彩は達筆で巧みであるが、甘美な優しい表情のものが多かった。修業時代には、三蔵はすでにこけしをほとんど作っていなかったため、兄弟子庄七の影響が強く、さらに武雄の個性も加わって甘美な雰囲気が強く出たかもしれない。また娘の描彩のものもあるらしい〈こけし手帖・32〉。昭和20年代には黄色のポスターカラーを使ったこけしもあった。昭和38年ころから、従来型と別に、三蔵型として、垂れ鼻、型の鬢飾りをつけたものを作り始めた。
なお、昭和20年代の作品で、三蔵と署名されたこけしには、武雄の代作があるという。


〔右より 30.3cm(昭和36年頃)、24.0cm(昭和44年)(高井佐寿)〕

 

〔伝統〕遠刈田系秋保亜系

〔参考〕

 

 

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