笹川菊之助

福島県中ノ沢の木地師。中ノ沢の木地業においては重要な工人であったがこけしは作らず、こけし工人ではない。

晩年の笹川菊之助

〔人物〕 明治24年5月30日、笹川勘助、もとの長男として川俣で生まれた。笹川家の先祖は福島県東白川郡棚倉の出身で地元の奥州一之宮都々古別神社の氏子総代も歴任した家。
父勘助は44歳のとき、沼尻硫黄鉱山の日本硫黄(株)に入植し、薪山を担当した。採掘した硫黄を精錬する薪を生産する部門であり、多くの配下を使っていた。菊之助は鉱山では働かず結婚して上京し、鶴見、品川辺りで港湾関係の仕事についたが、しばらくして中ノ沢に戻った。
大正2年に日本硫黄(株)耶麻軌道部が管理運営する沼尻鉄道が開業し、繁栄した鉱山に加えて中ノ沢温泉にも多くの人が入るようになった。笹川家は中ノ沢温泉の通りに面した一部に2階作りで、住宅と兼ねて「雑貨都屋」という店舗を持ち、味噌、醤油、呉服などを商った。この店の二軒先には磯谷茂の山市屋があり、大正3年頃には青根から海谷七三郎を職人として招いて木地工場を併設していた。
笹川菊之助は、幼少の頃より手先が器用であり、木地挽きにも強く惹かれたので、山市屋の工場で七三郎の技術を見ながら木地を学んだ。山市の工場では磯谷茂の義弟磯谷直行や秋保からきた佐藤文六などが木地を挽いていた。やがて菊之助は独立して、自家に工場を整えた。この工場では平澤屋の氏家亥一、秋保の佐藤文六、栃木の松本広記などが職人として働いた。また、大正13年6~9月には県主催の木地講習会が90日間に渡って中ノ沢で開かれ、山市商店と笹川菊之助の工場が会場となって、遠刈田の佐藤豊治が講師として滞在した。
大正14年9月に中ノ沢温泉に大火があり、それが契機となって耶麻鉄道の沼尻駅前に転居することになった。その後も木地業は続けたが、他にスキーの板作りなども行っていたようである。
昭和25年4月27日、沼尻駅前の自宅にて没、行年61歳。

こけしに注目が集まる前に、中ノ沢の大火にあって温泉街から沼尻駅前に移ったので、中ノ沢こけしの成立する時期に製作に加わる機会を失ったのかもしれない。

〔参考〕

  • 野矢俊文:〈菊之助異聞〉(こけし小家)(平成14年2月)
    山本吉美による私家版で20部作成された。

    菊之助異聞

     

 

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