長蔵文書

こけしに関する記載が文書上に現れたものとしては万延元年(1860)の「萬挽物扣帳」(岩松直助文))があり、そこには「小人形、相人形、中人形、大人形、大々人形」としてこけしの寸法が記載されている。

こけしに相当する”名称”が明確に文書上に現れるのは文久2年(1862)の「御郡村御取締御箇条御趣意帳」(高橋長蔵文書)が最初であり、その16頁目「木地人形こふけし」という記載がある(下図下段の11行目)。

鬼首 長蔵文書

この段落の部分は〈鳴子町史・下巻〉に下記の通り紹介されている。

一、 子供手翫人形等他所仕入被相留候儀、別而被仰渡、承知仕候。右之外御城下并在々町場ニ而赤物師と号し候商人共、雛等色々張抜もの并山根付村々出産之木地人形こふけし抔と申様之品、御国産ニ候共、無益之品ニ相ミヘ申候間、右売買一切被相留候様、被成下度、奉存候。

要訳すると、「子供の手遊び人形等は他所で仕入れることは禁止というご指示に付きましては承知致しました。右の他に御城下ならびに近在の町に赤物師という商人共が扱う雛や張子製のもの、また山裾の村々で生産される木地人形こふけしなどと申す物、これらは自国産とは云へ、無益の品であるから、売買は一切取りやめるようにして頂きたいと思います」といった意味で、長蔵が自分の考えについてお伺いを立てている文意になるだろう。

長蔵文書では、この部分のみが大きく取り上げられるが、これは仙台藩の「倹約令」を受けて、鬼首村の取締であった長蔵がその実施要領をまとめたり、まとめるための確認、あるいは細則追加の依頼などの文書で全体で50頁に及ぶ。売買を禁止したものは図の上段に一部見えるようにこけしだけではなく、かせ笄の類髪飾亀甲象牙の類、髪附、荘入、日傘、足袋、畳表並びに茣蓙、菓子の類、内裏雛、雨傘、錦絵艶本、裸人形並びに子供翫物、茶、砂糖、下り煙草、下り傘、下り煙管、下り小間物の内子供手翫の類など多種に及んでいる。

倹約令の背景

仙台藩の「倹約令」そのものについては資料を持ち合わせていないが、その内容は徳川幕府が享保、寛政、天保の改革に於いて発効した倹約令をほぼ踏襲したものであったろう。『徳川禁令考』に見る「倹約令」は次の通りで、大筋で長蔵文書はこれと大きく変わってはいない。

一、不益に手間懸り候高直の菓子類、向後無用致すべく候。是迄拵へ来り候共、相止め申すべき事。
一、火事羽織・頭巾、結構の品無用致すべし。并びに町方火事場まとひ、錫箔の外用ひまじき事。
一、能装束甚だ結構成るも相見へ候間、向後軽く致すべく候。并びに女の着類も、大造の織物縫物無用に致すべき事。
一、はま弓・菖蒲甲刀・はご板の類、金銀かなもの并びに箔用ひ申すまじき事。
一、雛并びにもてあそび人形の類、八寸以上無用たるべく候。右以下の分は麁末の金入どんす類の装束は苦しからず候事。

仙台藩で出された倹約令の背景を理解するには、藩の財政基盤の特殊性と幕末の藩の財政状況を知る必要がある。

仙台藩は本質的に良い米が多く産出するところだった。公称62万石であるが実質的には百万石程度の生産能力はあったと言われる。そこで伊達政宗のころから余剰の米は藩が買い付けて江戸で売る仕組みができた。この仕組みは寛永3年(1626)にさらに「買米仕法」として制度化される。これは一種の金融政策であり、「御買米金」という準備金を播種期前に無利子で農民に貸付け、収穫期の秋にそれに相当する米を時価で収納する制度であった。この制度は農民に資金を使って新田開発を行う意欲を起こさせることにもなった。 このような政策から、仙台藩の財政は極端に米に依存するようになる。稲作に恵まれない藩で、多様な産業振興政策がとられたのと極端な違いであった。  五代藩主伊達吉村は享保12年(1727)に幕府の許可を得て「寛永通宝」を石巻で鋳銭し、それを領内で流通させることで利潤を上げ、さらに買米仕法を再編強化し、農民から強制的に供出させた余剰米を江戸に廻漕して利益の増大をはかった。この当時は江戸市中に出廻った米のほとんどが仙台米であったと言われている。

ところが宝暦5年(1755)の飢饉が起こると、米作に過度に依存していた仙台藩は、財政上の打撃も大きく、そのやりくりのために大坂の銀主から借金をして急場をしのがざるを得なくなった。このころから倹約政策が出始める。仙台藩の金方御用は大坂の十文字屋が勤めていたが、この頃十文字屋の家運が衰えたので、十文字屋の親戚筋にあたる升屋山片平右衛門が銀主に代わった。  天明期(1782-1787)に入ると冷害、長雨による水害が続き、仙台藩では餓死者が30万人を超える被害を受けた。米作に依存する財政への打撃も甚大で、その立て直しは急務の課題となった。 こうした仙台藩の逼迫した財政危機に対して、その改善に力を発揮したのは、大坂升屋の番頭であった升屋小右衛門こと山片蟠桃であった。蟠桃は仙台米の扱いを升屋で一手に専有し、さし米の制度を適用して資金を確保し、藩中に米札を発行して、利潤を上げられるようにした。こうした努力で文化、文政期には、仙台藩の財政はやや安定を保つことができた。

しかし、仙台藩と升屋との関係は、天保5年(1834)くらいで切れてしまう。詳しい理由は分からないが、山片蟠桃が文政4年(1821)に亡くなって以後、升屋の力が次第に落ちていったからであろう。そのすぐ後の天保7年(1836)には冷害による大飢饉が起こり、仙台藩では92万石の大減収となった。年貢米はもちろん、農民の飯米も足りない状態で、買米による藩の収入も皆無となった。他領から高価な支援米を正貨で買い入れざるを得ず、その費用は30万両以上に達して藩財政は危機に瀕した。藩は山片蟠桃の藩札にならって新たに預かり手形を発行したが、資金の裏付けがなかったためにすぐに価値の下落が起こり、物価を高騰させることとなった。

安政3年(1856)仙台藩の主席奉行芝多民部は、仙台大町に古着店を出して豪商となっていた中井新三郎(近江出身)を藩の蔵元に任命する。中井は両替所名義で改正手形の発行を始める。そのころ丁度黒船の来航があり、仙台藩は警備強化、軍艦や大砲の建造などに出費が増えて、準備金がないままに手形を増発する結果となった。極度のインフレで物価は高騰し、安政5年(1858)芝多民部は主席奉行を罷免される。 このあと同じ奉行職であった但木土佐が経済の立て直しを図り、殖産新興政策と倹約令を推し進める。文久2年(1862)10月には「向こう5年間は、10万石の分限で表高62万石の仙台藩を運営する」とを宣言して、緊縮財政を断行した。衣服は士分・陪臣は一切綿服、役料も奉行は千七百石、以下若老、大番頭、召出、詰所に至るまで減額した。他国産の絹綿は年内に売り払わせ、瀬戸物・小間物・煙草・鉄物の移入を禁じた。

文久2年の倹約令

木地人形こふけし 鬼首村の取締長蔵が書いた「御郡村御取締御箇条御趣意帳」は、但木土佐の緊縮財政策の下で出された倹約令の運用指針をまとめたものである。  倹約令が意図したのは、主に他藩からの奢侈品の流入に伴って、藩の金が流出するのを防ぐことであって、他国産あるいは下り物に対しては厳しい。下り物とは上方から入ってくる高級品をいう。  一方、藩士への扶持、役料は減額されて一定なのにも拘わらず、物流と消費経済は物価を上昇させるので、自国産のものとはいえ不要不急のもの無益のものは禁制として、物価上昇を抑えたい意図もあった。緊縮財政下においては、庶民の購買意欲をいたずらに刺激するものも好ましくないとされたのである。 こうした背景から、仙台や近在の町々に赤物師が売りに来る雛人形や張子の人形とともに、山根付の村々で作られる「木地人形こふけし」も、「無益之品であり、かつ消費経済を刺激するもの」として売買を差し留めるようにしていただきたいと長蔵がお伺いを立てたものであった。ただ、不況下とはいえ経済が回ることにはプラスの側面もあり、その点の考慮があったかどうかはわからないが、仙台藩からこの長蔵のお伺いに対して、いかなる沙汰も出た形跡はない。
人形やおもちゃが幼育玩具として子供の健全な成長に必要なものという認識は、西欧の「こども博覧会」などを通じて明治30年代に日本が学んだことであって、支配する側からすれば、それ以前は実用実利のない「無益之品」という一般の認識だったのである。

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なお、文久年代の鬼首村は栗原郡であり、「山根付村」というのは狭義に取れば栗原郡の山裾にあった村という意味に取れる。そうであれば、鳴子は玉造郡であるから、鳴子の外の栗原郡でもこけしが作られていたことをこの文書は示唆するかもしれない。そのこけしは鬼首の温泉で売られていたであろう。因みに、鬼首村が玉造郡に編入されたのは明治11年になってからである。
一方、「山根付村」を広義に取れば仙台領近在の山裾の村という意味に取れ、鳴子あたりのことを指していたかもしれない。
そうしたこけしの流通には赤物師が関与し、湯治場だけではなく領内の村々において、祭礼縁日などに露店を出して売り歩いていたことが伺われる。この流通形態が、鳴子こけしがもてあそぶ玩具から、かなり早い段階に立てて飾る人形へと進展していたことの一つの要因になったかもしれない。小さな安価なこけしより、単価の高い飾る人形のほうが赤物師にとっては割りの合う商品だったと考えられるからである。

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参考文献:

  • 宮本又次「大阪商人」弘文堂(1958) (講談社学術文庫再刊)
  • 宮城県史編纂委員会 編纂「宮城県史」宮城県史刊行会(1957~1986)
  • 鳴子町史編纂委員会 編纂「鳴子町史」鳴子町史編纂委員会 (1974~1978)

 

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