阿部常松(あべつねまつ:1868~1926)
系統:独立系
師匠:阿部熊治郎/寅治郎/佐藤茂吉
弟子:阿部治助/阿部常吉/阿部賢吾/板垣利一郎/佐々木仁三郎
〔人物〕明治元年1月11日(戸籍による)、福島信夫郡土湯村下ノ町の阿部吉弥の四男に生まれる。長兄の阿部熊治郎に木地を習い、二人挽きを習得した。弟の五男末松も木地を学び、福島の小幡文助の養子となった。常松は寅治郎(でぶ寅)について一人挽きを習った。寅治郎は明治18年晩秋、膽澤為次郎の去った後の土湯へ来て、阿部熊治郎の家に滞在し、一人挽きの指導を行なった。
その後常松は、宮城県青根に行って佐藤茂吉の下で仕事をしたのち、茂吉のすすめで蔵王高湯の斎藤藤右衛門の経営するみやげ物店万屋の職人となった。青根では事情があって佐久間常治と名乗っていたこともある。
〈蔵王東の木ぼこ〉によれば、蔵王高湯へ移ったのは明治22年で、同じく茂吉の弟子鈴木三吉も同行している。二人ともまだ一年足らずの修業だったというから常松が青根へ行ったのは明治21年ということになる。蔵王高湯では一年半ほど働いたが、藤右衛門に挽き賃の値下げを申し入れられてここをやめ、明治23年秋に三吉とともに青根へ帰り、その後山形県湯野浜温泉へ行ったという。
一方、〈こけし手帖・23〉では、蔵王高湯へ行ったのは明治21年で、間もなく当時12歳の斎藤松治を弟子にとったが、万屋主人の藤右衛門がそれを喜ばず、そのため常松は啖呵を切って万屋を出て山形へ去り、小林倉治方へ立ち寄って一人挽きを教えたのち、湯野浜温泉を経て温海温泉へ落ち着いたとある。常松は万屋を出る際には、弟子の松治に自分の印絆纏を与えて、「何かあったらこの印絆纏を持って俺を訪ねて来い」と言ったという。
なお、青根、蔵王高湯、山形などでは佐久間常治、阿部常治、佐久間常松などの名を用いたといわれ、〈蔵王東の木ぼこ〉には佐久間常治としてある。各地における記憶違いか、あるいは草鞋を脱ぐ場所によって別名を使っていたのかわからない。
温海へ落ち着いた年代は不詳であるが、長男治助が明治36年に温海で生まれているから、それより以前であることは確かである。温海で開業後は玩具類を主体に木地を挽いた。
大正15年9月29日没、行年59歳。
鶴岡出身の妻登喜恵との開に四男三女があり、長男治助、次男常吉、四男賢吾の三人が木地を習ったが、次男の常吉が常松のあとを継いだ。弟子には息子たちのほか、蔵王高湯時代の斎藤松治、温海へ落ち着いてからの板垣利一郎、佐々木仁三郎、金蔵(姓不詳)などがいる。
山形の小林一家も一人挽きに関しては常松から指導を受けた。また、鶴岡の竹野銀次郎(笹沼兼吉の弟子)、大山の岡村豊作(高橋直広の弟子)とも親しく、二人とも常松が温海へ落ち着く途上で、こけしその他玩具小物類を指導した弟子であるともいう。
常松はなかなか侠気があったようで、松治に与えた印絆纏の話のほかにも、小林倉吉の弟兼吉が博徒の親分の娘と駆け落ちして逃げてきたときには温海で二人をかくまったなど情に厚く義侠に富む逸話がある。
〔作品〕常松とはっきりわかる作品は残っていない。みずき会の〈こけし研究ノート・Ⅱー1〉でも常松と常吉の鑑別は難物とされた。しかし常松は、生前には常吉はじめ息子たちに面描をさせなかったというから、大正期に入手したとされる温海のこけしで、後の阿部常吉の作とは明らかの別人と思われるものは一応常松作としてよいであろう。下掲の二本は、鈴木鼓堂、佐藤俊郎蔵品中にあったもので、ともに昭和53年に神奈川県立博物館で開催された「こけし古名品展」に陳列された。佐藤氏の蔵品は大正末に温海で求めたものという〈大阪教室だより・26〉。
〔右より 19.1cm(大正期)(鈴木鼓堂旧蔵)、19,0cm(大正中期)(佐藤俊郎)〕
佐藤俊郎蔵品中には上記のほかに、やや保存は悪いが二本の常松らしい小品があった。
下掲は西川友武著の〈工藝窯〉(昭和17年11月)でその挿絵に温海のこけし絵が描かれている。
下掲は小野洸コレクション中のこけし、大正中期の作とされる。西川友武旧蔵で、〈工藝窯〉の挿絵のモデルとなったこけしである。四男賢吾はこのこけしを見て「自分の知らないこけしだ」といい、「常松としか考えられない」といったらしい〈こけし手帖・68〉。
頭部には蛇の目を残している。
これら三本の常松と思われる作に共通するのは前髪の両端が下がる描法で、常吉の初期の蒲鉾状の前髪とは区別される。 なお長男治助が昭和10年頃蒐集界からの依頼でこけしを少数作り、東京の三五屋がそれを扱ったことがあるが、その前髪は鈴木鼓堂旧蔵に似た形で両端が下がっていた。
なお、天江コレクション(図譜・128、129)は昭和2年2月入手とされるが、常松死後3ヶ月余の入手であり常松の可能性がある。
〔伝統〕独立系
土湯で木地を学び、青根で茂吉の下で働き、蔵王で松治を指導し、山形に一人挽きを伝えた。こけしの11系統確立期に、各地に様々なこけしの形態・描法の要素を伝えながら移動したので、こけしの様式分布に対する影響力は大きかった。
土湯の、地蔵型は常松の異動に伴って多くの工人に影響を与え、直胴を基本形とする産地で、胴のくびれた型を生み出すきっかけになったと考えられる。
また、胴の上部、ろくろ線の間に描かれるアーチ上の飾りは、地蔵のよだれかけのモチーフであり常松により各地へ伝播した。
〔参考〕