山中笑

明治から大正にかけて民俗、土俗の研究、習俗の調査や採録を行った人。筆名は「共古」。集古会会員。集古会にこけしを出品した記録がある。

山中共古(笑)

嘉永3年11月3日(旧12月6日)江戸の四谷仲殿町西念寺(現在の東京都新宿区)の幕臣山中三九郎保全の次男に生まれた。幼名は平蔵で、後に保生。明治4年に笑(えむ)と改名した。
山中家は徳川氏に仕える御家人の家柄で、平蔵も幼少時には柔術・剣術・槍等を学んだという。元治元年に和宮親子内親王の広敷添番に登用され、江戸城で和宮に仕えた。
明治維新後、徳川家とともに駿府に移り、外国人教師に英学を学び、明治3年旧静岡藩の英学所賤機舎の教授となった。ここで宣教師たちと深く交わり、また医師D.マクドナルドの影響もあって英学生11人と共に明治7年にメソジスト教会の洗礼を受けた。
明治14年東洋英和学校神学科を卒業、明治15年には日本人で最初のメソジスト教会牧師の一人となった。その後、山梨県甲府を中心に牧師として活動するとともに甲州を中心とした習俗にも関心を抱いて採録し、その成果を〈東京人類学会雑誌〉などに報告した。筆名は「共古」を用いた。また人類学、民俗誌学の洋書をを熱心に読んだ。明治32年には〈土俗雑語〉をまとめ刊行した、明治38年には柳田國男とも知己となり、また藤井貞幹や松浦武四郎とも親交をむすぶようになって民俗学にさらに傾倒するようになった。民俗資料の収集や習俗の調査研究も行い、集古会にも参加するようになった。民俗資料とともに骨董・古銭の蒐集も行った。
明治45年63歳で牧師を引退し、その後青山学院図書係を務めたが、この頃より民俗学や考古学に専念するようになった。柳田國男も共古の業績を評価して著作の出版に尽力した。〈東京人類学会雑誌〉への寄稿をまとめた〈甲斐の落葉〉他、〈仙梅日記〉、〈三猿塔〉、昭和3年には斎藤昌三の編集による〈芋蔓草紙〉の一冊となった〈共古随筆〉など多くの著作が刊行された。未刊ながら〈共古日録〉64冊なども残されている。
昭和3年12月10日没、行年79歳。


平凡社東洋文庫の一冊となった〈共古随筆〉

集古会誌甲辰巻之三(明治37年)に第47回集古会(明治37年3月12日福田屋開会)の記録が掲載されている。下掲のその出品目録の「課題 人形類」には、清水晴風の「磐城国双葉郡浪江町コケシヲボコ」とともに、山中笑の「奥州一ノ関こけし人形」の出品の記載がある。

明治37年甲辰巻之三

「奥州一ノ関こけし」と称されるものは、〈うなゐの友〉図版の輪入りのこけし(高橋胞吉の輪入りの元型となったもの)、岡崎のこども博覧会に出されて後に林若樹を経て深沢コレクションにはいったもの(大沼甚四郎)などがあるが、この第47回集古会に出品された山中笑の「奥州一ノ関こけし」はどのようなこけしであったか不明である。あるいはこの山中旧蔵のこけしが清水晴風に貸し出されて〈うなゐの友〉掲載となったり、岡崎のこども博覧会に出品されたのかもしれないが、現在は確認できていない。
なお大正2年に清水晴風が亡くなった後の遺品は、西沢仙湖、林若樹、山中共古、三村清三郎竹内久一(久遠)らが集まって、晴風の知友らに適当に分配したという。このとき共古自身が何を受け取ったかはわからない。幾本かのこけしはおそらく林若樹のもとへ移ったと思われる。

〔参考〕

  • 木人子室:木人子閑話(5)「お茂ち屋集 全」と大沼甚四郎
  • 山中共古:共古随筆(東洋文庫588)飯島吉晴解説(平成7年)平凡社
    「土俗談語」「神社に就いて」「三猿塔」「影守雑記」で構成されている
  • 山口昌男:幕臣の静岡〈「敗者」の精神史(下)〉(岩波現代文庫・145)
  • 山口昌男:広瀬千香の見た「星座」〈内田魯庵山脈(下)(岩波現代文庫・246)
  • Wikipedia 山中共古
  • 共古日録
    現在早稲田大学図書館に所蔵されており、内容は画像ですべて見ることができる。
    (⇒ 閲覧

    共古日録

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