集古会は明治29年1月上野韻松亭で開かれた集古懇話会の集まりからスタートし、以来昭和19年まで続いた趣味人同好の会である。
最初は、東京帝国大学の坪井正五郎教授が旗を振り、研究室の若手だった八木奘三郎や林若樹が実務を担当して始まった。発起人には佐藤傳蔵、大野延太郎(雲外)、八木奘三郎、林若吉(若樹)、田中正太郎がなった。「談笑娯楽の間に考古に関する器物及書画等を蒐集展覧し互に其智識を交換する」(集古会規則第一条)ことを目的とした。
第一回の参会者は21名。林若吉(林若樹)、大菊七郎兵衛、大野延太郎、亀田一恕、田中安国、田中正太郎、坪井正五郎、中川近禮、野中完一、黒川眞道、桑野禮治、八木奘三郎、山中笑、阿部正功、佐藤傳蔵、三宅米吉、水谷乙次郎、宮下鉦吉、下村三四吉、毛利利教、關和喜吉で、八木奘三郎が発起人総代としてこの會の趣旨を述べ、坪井正五郎が祝辞を述べたとある。
当初は人類学・考古学が中心であったが、「市井の好事家も加えた方が面白いだろう」という坪井の発案で「竹馬会」で親しくしていた玩具の蒐集家清水晴風に声をかけたところ、その仲間がこぞって集古会に加わり、考古学を中心とした石器や土器の学問的な蒐集から、玩具といった趣味的なものにまでその対象が大きく広がっていった。さらに明治38年に結成された「流行会」のメンバーであった佐々木信綱、巌谷小波も同じく会員に加わった。また集古会のメンバーの中で人形玩具を愛好するメンバーがさらに「大供会」を作って活動したり、実質的にいくつかの収集対象よる小グループも形成されて、「集古会」は蒐集趣味の集まりとして下図のように懐の非常に大きな活動母体となった。
集まりの各会に持ち寄られた文物は〈集古会誌〉に詳しく記録された。会は戦局が厳しくなる昭和19年まで続けられ、昭和19年7月の機関誌〈集古会記事・188号〉が最終号となった。最も盛んに活動したのは大正末期で、昭和2年1月号の会誌〈集古〉の会員名簿では会員数350余名であった。
左から第一輯、第参輯、第弐輯
表紙圖案:岡田村雄 表題:磯野蛙巣
この会には何回かこけしも持ち寄られて展覧に供せられたことがある。
こけしの持ち寄りが記録されたのは、明治33年3月の〈集古会誌〉で第26回の「人形扁額」に清水晴風出品の「一ノ関コケシボウ陸中一躯」があり、また明治36年3月の〈集古会誌〉に第41回出品目録(明治36年1月10日開催)の「内外遊戯品之部」」があって、林若吉出品として「奥州一ノ関 こけし古製こけしおぼこ一個」の記載がある。さらに明治37年甲辰巻之三に第47回出品目録(明治37年3月12日福田屋開会)の「課題 人形類」があり、清水晴風の「磐城国双葉郡浪江町コケシヲボコ」と、山中笑の「奥州一ノ関こけし人形」の出品の記載がある。
このうち、清水晴風出品の「一ノ関コケシボウ陸中一躯」は〈うなゐの友〉初編あるいは貮編にのった一ノ関こけしと思われる。初編のものであれば花筐コレクションの宮本惣七、貮編であれば輪入りの一ノ関こけしであるが作者はわからない。
林若吉(林若樹)出品の「奥州一ノ関 こけし古製こけしおぼこ一個」は明治39年11月1日から25日まで京都市岡崎町博覧会館で開催された「こども博覧会」にも清水晴風名義で出品され、その記念号として明治40年3月に発行された京都市教育会会報に写真掲載された。それは林若樹から深沢要の手に渡り、現在鳴子の「日本こけし館」に収蔵されている大沼甚四郎作のこけしであった。
もう一本の清水晴風出品「磐城国双葉郡浪江町コケシヲボコ」は考古学者の大野雲外(延太郎)が浪江で入手したもので大野延太郎から清水晴風の手に渡り、〈うなゐの友〉に紹介されたものだった。清水晴風の没後、林若樹の手を経て西田峯吉の手に渡り、現在では「西田記念館」に収蔵されている。遠刈田の古い作者佐藤重松の作ではないかといわれている。
山中笑(共古)の「奥州一ノ関こけし人形」については消息不明である。
〔参考〕