伊藤蝠堂

〔人物〕明治38年8月20日、三重県富田町古川で、『酒吉』といわれる酒造を業とする素封家の家庭に生まれた。本名は伊藤吉兵衛。旧制富田中学校の第20回生で丹羽文雄と同級、法政大学法科に進学、卒業時就職に際しては、面接官から「食わんがために就職する人を一人、君のような一生食うに困らないと思われる学生のために落とすことになる」と言われ、他所での就職をやめ、実家の家業を継いだという逸話が残る。当時相馬御風の「大愚良寛」を読んで感銘を受けた。和尚の歌「世の中にまじらぬ徒にはあらねども ひとりあそびそ我はまされる」をモットーとし、この歌がその後の生き方を決めた。
3代目吉兵衛を継いだが、実家の蔵には先代の2代目吉兵衛からの蒐集品が良く整理されていた。昭和7年頃には、本人は酒造りも人に任せて、郷土玩具の趣味を生活の中心とした。黑塀の堂々たる構えの中に酒蔵を改造した郷土玩具の収蔵庫が二棟あり、ひとつは児童文学者の巌谷小波(いわやさざなみ)の命名による 「於茂千也函」、もうひとつは 川崎巨泉(郷土玩具研究家・おもちゃ絵画家)の命名による「蝙蝠堂」と名付けて、郷土玩具の収蔵宝庫としていた。巌谷小波は昭和5年7月に蝠堂邸を訪れ、玩具やバットなどで天井をはっていたとその日記に記している。
昭和8年に冊子〈於茂千也函案内〉を発行、翌9年には邸内に蝠桜神社を勧請し、知名人80人を招いて盛大に於茂千也祭を挙行した。この祭りの様子は同年4月発行の〈草紙・於茂千也祭号(創刊号)〉で紹介された。

蝠堂が刊行した〈草紙〉(四日市市立図書館)

「郷土秘玩」昭和7年より

「蝙蝠堂」は 昭和34年9月の伊勢湾台風により壊滅的な被害を受け、なおかつ道路拡張の工事などもあったので、現在その収蔵品は台風被害を一部だけに免れた「於茂千也函」の方に保管されている。三重県指定有形民俗文化財(昭和31年5月2日指定)となっている。なお文化財調査の際、少寸の一部こけしが盗難にあい、以降見学を中止したと聞いている。平成になって、郷土玩具関係者に公開したことがある。

伊藤氏が二代約35年間にわたって収集した5万点に及ぶ玩具類内容は日本全域と中国、朝鮮半島、南アメリカ諸国、東南アジア諸国の手作り玩具で、土、木、竹、紙、藁(わら)、布等で造られ、それぞれの地方や国の習俗、習慣が表現されており、民俗学的に貴重な資料となっている。
主なものとして、こけし2000点、凧500点、天神500点、祭山車500点、羽子板300点、獅子頭300点や達磨、雛人形、博多人形等多種多様に及ぶ。
出版物としては〈古茂里〉(趣味誌6冊、昭和5年~)、前で紹介した〈草紙〉(和紙横綴じ手習い草紙6冊(昭和9年)などを発行し 名古屋の四光会の責任者として活動した。
昭和9年2月11日 収集中に破損などした玩具を慰め慰霊するため自庭に於茂千也塚(子守の像)と小祠を建立し 於茂千也祭を主催した。全国の郷土玩具人を招待して、その盛大さは豊太閤の北野の茶会を思わせるほどであったという。
以降毎年開催されていたらしく、昭和15年5月5日の第8回於茂千也祭には、四光會として「こけし」誌130部を発刊、その序に「鵜の真似をする鳥にはなりたくないが流行にさからはず、時の流れに順応していきたいといふのが我々の主義である。土鈴がはやれば土鈴、土笛に人気が集中すれば土笛、こけしが時代の寵児となればこけしと~我々が年に一度の於茂千也祭にこけしを担ぎ出したのも、この小冊子を編むに至ったのも我々の主義を形として現したに過ぎない。たゞ、これによっていつの日にかこけし黄金時代を回顧し我々の於茂千也祭を追慕して頂ければ幸甚である」と述べている。中の記事は、〈無題〉有坂与太郎、〈コケシ這子について〉川崎巨泉、〈こけし時代〉川口貫一郎、〈飯坂温泉こけしの旅の思い出〉米浪庄弌、〈瀬見紀行〉深沢要、〈和子とこけし〉石井眞之助、〈こけしの行方〉濱島静波、〈私とこけし〉松岡香一路、〈こけし芸話〉二九童人、〈こけし作者名簿〉、四光會編と当時のこけし会のオールスターであった。
深沢要から石井眞之助宛ての書状に「富田御用こけしの旅は意外の雪で思うやうに参らず、何とも恥ずかしい歴訪となりました。只ふり返って見て忘れ難く存じますことは佐久間由吉弟粂松のこけしを入手したこと。」とあるが、「富田御用」と言うのは「三重県富田の蝠堂に頼まれたこけし旅」と言う意味、昭和15年の於茂千也祭のための記念になるこけしを依頼されたことを言っていて、この旅で入手した佐久間粂松が、祭りの目玉として下掲の〈こけし〉誌でも写真紹介された。


第8回於茂千也函祭に出された深澤要からの佐久間粂松(昭和15年5月5日刊)

なお蝠堂の雅号は、蝠は福に通じ二九(フク)と数に表示できることから付けられたもので、蝠はコウモリであり、また煙草の空箱の蒐集でも有名であったので、「ゴールデンバット」の意匠に因んで、バットつまりコウモリから蝠の字を用いた。
濱島静波と共に、中京地区の郷土玩具人として中心的存在であり、大人の温容をたたえ、玩具仙人としての風格があり、その蒐集と研究とに専念した姿勢を思うと玩具人として忘れ得ぬ一人である。なお、四日市を中心とするケーブルテレビのCTYから2019年12月に「まほろば~歴史の扉 ⑫趣味人伊藤蝠堂の生活」が放映されネット検索でき、見ることが出来る。
伊藤蝠堂の郷土玩具は昭和34年9月の伊勢湾台風の被害を受けたが、その心の痛手もあって病床につき、昭和36年6月5日に亡くなった。

下掲の右は〈愛玩家名鑑〉(昭和10年、建設社刊)掲載の伊藤蝠堂、同書には「蒐集した多くの玩具を秘蔵しないで陳列して多くの人に見て頂きたいと考えて童宝博物館にしたいと云う理想を夢見て突進しているのが、私の現状です」とある。

上掲の左は、伊藤蝠堂のこけし棚、染料で描かれたこけしの胴模様がほとんど消えかけている中で、色の全く褪せていないこけしが2本あり、ピンク色の派手な胴模様で、多分ペンキで描かれており四ッ花に茎、蕾を描いている。大きい方には襟も描かれる。面描は割鼻に二側眼、山形の小林家の清蔵、栄蔵あたりと思われる。いずれにしても、長い時間紫外線や、水濡れすれば、色の褪せるこけしに対して、存在感抜群のペンキ、エナメルこけしである。
こうした色の褪せない事もあり、大正の中頃に、遠刈田からその手法を小田原に習いに行ったことがあつたが、乾燥に時間がかかり更に上塗りするにも手間がかかるのでその後長く続かなかった。小田原では乾燥剤を上手く使っていたようであるが他の地方には教えなかったようだ。
また古い木地玩具の中にもペンキやエナメルを使ったものがあると聞くが、全貌はよくわからない。


伊藤蝠堂所蔵のこけし 
口絵写真:右より 久四郎、角治、胞吉、勘内、周助の5本は館蔵品で、久四郎は昭和7年6月作、胞吉は昭和6年6月、周助は昭和7年1月、勘内は14年12月晩年の作、角治は大正時代の作と深澤要に折紙を付けられた代物である。

 
蝠堂コレクション

下記画像のクリックにより郷玩蒐集家による伊藤蝠堂コレクション見学会の写真アルバムを参照できる。
伊勢湾台風の浸水で染料が失われたものもあるが、こけし棚を凝視するとコレクションの全容がわかる。

蝠堂コレクション見学

〔参考〕

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