『名古屋こけし会』(戦前)は昭和14年11月に発足、昭和19年7月頃まで活動した中京地区のこけし会。幹事は 三島銘二、山下光華、浅野一恕の3名、事務局は、名古屋市中区小林町56 浅野一恕方。なお、名古屋こけし会発足の一ヶ月前、昭和14年10月13日に名古屋の同好者により加藤春樓宅でこけし交換会が行われ名古屋地区で会発足の機運が高まっていたと思われる。また濱島静波、鈴木鼓堂両名はいわば顧問格として名古屋こけし会に関与していたようだ。
例会は昭和15年以降ほぼ毎月行われ、昭和19年9月以降ほとんど活動は無かった。
発足の『御挨拶と御案内』には次のように書かれる。
「東京こけし会につゞいて関西こけし会が設立されその中間にある当地にも之が必要に迫られ、この度先輩諸氏の支援により名古屋こけし会の誕生を見るに至りました。左記により第一回の会合を催ほしこれを発会の代用と致しますから万障御繰合せの上賑々御光来をお待ち申します
こけし交換会 ◎十一月二十二日午後五時より入札
十一月二十三日午前十時より入札 ◎開札は十一月二十三日午後六時より ◎会場は中区小林町五六 浅野一恕宅
今回は特に先輩諸氏の応援によって約二百本のこけしが用意してありますから必ずご満足願へる事と信じます。
名古屋こけし会 三島銘二、山下光華、浅野一恕
事務所 名古屋市中区小林町五六 浅野一恕方 」(原文ママ)
名古屋こけし会のその後の活動を出来るだけ記載してみると以下の通りである。
- 昭和15年4月24日(25日?)例会開催、入札交換会
- 昭和15年9月13日例会開催
- 昭和16年2月15日例会開催(浅野一恕宅にて)
- 昭和16年4月下旬 浅野一恕、山下光華東北こけしの旅に出る
- 昭和16年5月3日例会開催(三輪町鳥三にて)
- 昭和16年11月23日 日進寺に於いて濱島静波氏の百日忌追悼会、(名古屋趣味家連合により)
- 昭和18年4月4日山下光華宅にて「こけしの夕」開催、参加者は鈴木鼓堂、紫屋(高橋)芝光、八代嘉助、村手春風、三島銘二、浅野一恕、松岡香一路、福岡秀司、斎藤芳治、山下光華
- 昭和18年下旬 山下光華、遠刈田佐藤吉之助尺、8寸、7寸頒布
- 昭和19年1月23日三島銘二宅にて例会開催
- 昭和19年3月3日浅野一恕宅にて例会開催(浅野一恕名古屋中央放送局の富山放送局栄転歓送会)
- 昭和19年4月30日山田氏の下宿にて例会開催
- 昭和19年5月末例会開催15名出席
- 昭和19年6月18日例会開催
- 昭和19年9月23~27名古屋こけし会主催「こけし文化と色紙展」を名古屋松坂屋で開催、同9月27日例会を開催し越後、滋賀、兵庫から参加者があった。
また昭和15年2月4日午後1時に名古屋地区の郷土玩具会が集まって「聖壽万歳皇軍武運長久祈願」を行うが、この郷玩会は『梅鉢会』、『名古屋こけし会』、『郷宝軍』、『七玩会』、『四光会』の5会である。この内こけしを中心に扱ったのは名古屋こけし会(戦前)と四光会、七玩会である。四光会浜島静波の書簡によれば、併せて物故趣味家の追悼会も兼ねての企画で、同日11時から、御幸本町の愛知県商工館地下の蔡香林で、深澤要を迎え作者不詳のこけしを並べ鑑賞会、交換会を行った。
『四光会』発足の経緯は 濱島静波(玩具樓)の追悼誌〈志のひ艸〉などで知ることが出来る。それによると濱島静波は昭和2年頃から『大供玩具研究会』、『名古屋集納趣味会』等を作り、〈お鷹ぽっぽ〉昭和2年、〈集納趣味〉昭和2年より18冊、〈名古屋のおもちゃ〉昭和6年、〈風車〉昭和6年より10冊等の活動を行った。その後四光会の活動に入り、昭和7年ごろから郷土玩具の頒布を盛んに行なっていたらしく、また昭和8年に名古屋鉄道常滑線新舞子に人形塚の建設を行った。これは饅頭喰い人形(石材)で現在は駅北にあるが、当時は海岸近くの松林の中にあった。
昭和9年1月の案内状によれば、「芝居十二月鈴 名古屋四光会洲崎神社ニ於テ」とあり歌舞伎に因む12ヶ月の土鈴を限定100組作り、名古屋四光会(伊藤蝠堂、濱島静波、吉野愛玩人、松岡香一路)の名前で配ったりした。さらに昭和13~14年頃に、村手春風、加藤春樓、鈴木鼓堂の3氏が入ったようだ。
さらに八代嘉助、加藤春樓、鳥山鳩車、村手春風、鈴木鼓堂が『伍玩会』をつくり昭和15年11月10日~17日まで当時の三星百貨店で「趣味の蒐集展 東北玩具こけし」を開催、『伍玩会』はまた『七玩会』へと発展したようだ。『七玩会』のメンバーは浜島静波、村手春風、鈴木鼓堂以外は田耕、薫風、宣春、至郎とあるが正確には良く判っていない。
一方三重県富田町古川の伊藤蝠堂も古くから数多くの活動を続け〈古茂里〉(雑誌6冊・昭和5年5月~)、〈草紙〉(手習草紙型6冊・昭和9年~)等を上梓した。こけし関係では「第八回伊勢於茂千也祭」の記念誌〈こけし〉(昭和15年5月5日)を四光会より出版した。なおこの記念誌には、深澤要が強くかかわっており、佐久間粂松を新発見の作者として、3本の作品と共に紹介し、「瀬見紀行」という文章を載せている。昭和15年3月の庄司永吉からの聞き書きで、箱橇に乗って永吉を訪ね、奥山勘三郎、長男善兵衛、次男初三郎や、高橋金蔵、大舘の職人佐藤順吉、鳴子の師匠岩太郎の思い出などを記している。この時こけしを描いてもらったが、持参した木地は畑違いの鎌田文市であった等と書いている。
また当時愛知県西尾在住の石井眞之助にも数々の助言を求めており、伊藤儀一郎のこけしがどうしても入手困難なため、これを借り受け四日市の陶土轆轤師松山某に作らせ陶窯で7本作り、万古焼絵付師林紫峯に絵付けを頼んだりした。これは伊藤蝙堂本人の他、石井真之助、深澤要、濱島静波、鈴木鼓堂等に配られた。なお深澤の石井真之助宛ての手紙によれば、陶器製のこけしが郵送時に壊れて届いたようだ。また石井蔵の儀一郎と同じ寸法に箱根木地師で、当時西尾在住の鈴木登一郎に木地を挽かせ林紫峯の絵付けで於茂千也祭に飾った。
また4寸のこけし木地を、鈴木登一郎に挽かせ、以下の様に記した赤紙を張り、来場者に配ったりした(下掲写真)。「輝く皇紀二千六百年の今日のよき日、皇軍の武運長久を祈り、趣味のおもちやを祝ひまつりて神の御前に謹んで奉献す、端午節句」とある。
なお、昭和7年6月発行の〈郷土風景 郷土玩具号〉に、「移動 郷土玩具座談会 名古屋郷土玩具蒐集家を集めて」の記事があり、中京地区の出席者5名は、富田一二、岡本六出、伊藤蝠堂、松岡嘉一郎、濱島静波である。名古屋の玩具熱が高揚したのは、大正7年に生まれた吉馬会からであるという。
名古屋郷土玩具界の各人士について〈こけし〉(東京こけし會1~30号川口貫一郎編、昭和14~19年)、〈愛玩〉(東京建設社、有坂与太郎編、昭和10年)、〈こけし〉(四光会 第8回於茂千也祭記念、昭和15年)、〈志のひ艸〉(四光会、昭和16年)、〈こけし用語集〉(橘文策、昭和20~21年)等で知れるところは以下の通り。
名前 | 号 | 住所 | 生年月日 | 没年月日 | 職業 | 会 |
三島銘二 | 名古屋市中区矢場町1-70 | 木形子研究会・こけし・鴻 | ||||
山下光華 | 木華子洞 | 名古屋市中区岩井通4 | 印鑑商 | 木形子研究会・こけし・鴻 | ||
浅野一恕 | 集古庵 | 名古屋市中区小林町56 | 名古屋中央放送局 | 鴻・こけし | ||
鈴木磯吉 | 鼓堂 | 名古屋市中区東須崎町26 | 明治29年7月8日 | 昭和58年3月20日 | 能楽器商 | 木形子研究会・こけし・鴻 |
八代嘉助 | 名古屋市東区伊勢町1丁目 | 明治36年11月10日 | 印刷業 | |||
村手寅雄 | 春風 |
名古屋市中区水主町3丁目4 |
明治36年2月 | 果実店経営 | こけし 〈宝船〉編者 |
|
伊藤吉兵衛 | 蝠堂 於茂千也聚集函 古茂里堂 |
三重県富田町古川町 | 明治38年8月20日 | 醸造業 | ||
松岡嘉一郎 | 香一路 | 名古屋市中区南大津通4-34 名古屋市中区矢場町5-51 |
明治35年1月29日 | 名古屋綿糸布取引所館員 | 木形子研究会 | |
加藤春樓 | 名古屋市西区茶屋町2丁目5 | 明治37年10月30日 | 昭和15年5月2日 | |||
高橋芝光 | 名古屋市南区洲雲町4-49 | 明治24年7月3日 | 図案業 | |||
小川善三郎 | 名古屋市中区小林町56 | 名株取引所取引員 | ||||
花井定彦 | 名古屋市西区沢井町10-1 名古屋市西区葭原町7-22 |
明治39年3月16日 | 映画館経営 | |||
濱島静波 | 玩具樓 | 名古屋市西区伊倉町2丁目 | 明治34年1月30日 |
昭和16年8月19日 |
名古屋中央放送局 | 木形子研究会・こけし・鴻 |
竹内亀吉 | 古屋市中区門前町2-12 | 明治33年10月15日 | 袋物及び絽刺材料商 | |||
宇佐美義一 | 名古屋市南区西古渡町柳田 | 明治42年4月28日 | 会社員 | |||
伊藤樗山 | 名古屋市中区大井町74 | 明治20年12月25日 | 公吏 | |||
稲葉与八 | 名古屋市東区田代町字金兒硲 | 明治30年8月18日 | 木形子研究会 | |||
稲垣豆人 | 岡崎市東康生町80 | 明治10年8月13日 | 岡崎瓦斯会社支配人 | |||
大林 清 | 名古屋市西区長島町4-1-9 | 明治19年6月14日 | 会社員 | |||
岡本天仁 | 名古屋市西区御御本町3-1 | 明治11年9月9日 | 薬種商 | |||
吉田茂吉 | 三重県四日市市 | 明治26年11月19日 | 水産業 | |||
高橋光子 | 名古屋市南区洲雲町4-4-9 | 明治38年12月2日 | ||||
松井 弘 | 岡崎市東康生町 | 明治23年12月1日 | 雑貨販売 | |||
澤田伊三郎 | 名古屋市中区西日置町大溝 | 紙器製作 | ||||
水谷鏡一 | 名古屋市中区大井町77 | 明治33年11月26日 | ||||
中野二郎 | 名古屋市東区横代官町10 | こけし | ||||
山下清夫 | 名古屋市中区岩井通4 | |||||
吉田栄一 | 名古屋市西区白菊町5-20 名古屋市西区白菊町3-26 |
木形子研究会・鴻・こけし | ||||
伊藤正長 | 名古屋市東区千種町池田4 | 木形子研究会 | ||||
山口和三郎 | 名古屋市東区田代町字竹之下158 | 鴻 | ||||
和田徳蔵 | 三重県松坂町新町 | 木形子研究会 | ||||
慶谷俊雄 | 三重県宇治山田市八日市市場42 | 鴻 | ||||
水野金五郎 | 名古屋市東区千種町棚田六3 | 鴻 |
以上の方々がすべてこけし蒐集家であるのかは判らないが、郷土玩具の関係者であることは疑いない。この他に浅井善応、鳥山鳩車、福岡秀司、斎藤芳治がいるがその詳細はわからない。
なお鈴木鼓堂は戦後名古屋で何回もこけし啓蒙の為に、コレクション展を行った。特に昭和34年3月1日から8日まで、名古屋松坂屋で、中部日本新聞社主催で鈴木鼓堂の「私のコレクション展」が開催された。その時ショーウィンドウに陳列された5尺の小椋久太郎は花井定彦の出品であった。