淡島寒月


淡島寒月

本名宝受郎とみお。別号寒月、愛鶴軒。玩具の世界では寒月で知られる。安政6年10月23日、江戸日本橋馬喰町4丁目に生まれる。家業は軽焼淡島屋。父の淡島椿岳は武蔵川越の農家の生まれであったが、馬喰町の名物軽焼淡島屋に養われ、画家として自由に生きた。
寒月は元治元年6歳で寺子屋で学び、明治の初めころから福沢諭吉の著作などに親しみ、明治7、8年には洋学などを学んだ。かなりの西洋かぶれであった。明治10年浅草から起こった火事で馬喰町の家が全焼、その再建に合わせて自室を洋間とし、ベットで寝るようになった。渡米を夢見て、向こうで日本のことを聞かれるという思いから日本文化の研究を始めた。明治13年頃には湯島聖堂の聖堂図書館に通い、熱心に草双紙の写本などを行った。その結果、西鶴研究家としても知られるようになった。また父椿岳の血を受けて画技にも長じていた。明治15年に結婚し、四男二女をもうける。明治19年軽焼淡島屋廃業、明治26年頃から父の椿岳が晩年に住んだ向島の弘福寺境内の梵雲庵に移り、自らの堂号にも梵雲庵を用いるようになった。

清水晴風、巌谷小波、坪井正五郎らと玩具趣味開発の先達をつとめ、明治期から大正期にかけての玩具愛好運動の中心的人物の一人となった。大供会などにも参加していた。ことに晩年は東西玩具の収集に熱意を示して、内外諸国の玩具百種を肉筆で俳画風に描いた〈おもちゃ百種〉十集(大正5~6年)を発表。その「はしがき」に、「世界は昔からの玩具国、ペリガモンの祭壇もヴアチカンのラオコーンも、我らの眼からは皆おもちや、飛行機も風船玉も、空を仰ぐにかはりはなけれど、人さまざまの生れ故郷風俗もかはつた玩具あり」と述べた。各地産の玩具が備えている郷土性に強い愛着と興味を寄せ、後続の収集趣味家に影響を与えた。ついで同じく〈おもちゃ千種〉十集(同7年)を世に出した。さらに〈おもちゃ万種〉を三部作として計画したが成らず、大正15年2月23日没。68歳。家業を使用人に任せて自分の興味に専念する生き方であった。
なお長女であった木内キャウは日本初の女性小学校長となり、また滝野川に木内学園を創立、戦後昭和22年に第一回参議院選挙で当選し女性議員を務めた。

寒月自身の言葉として土俗玩具への思いを以下のように記述している。
「玩具と言えば単に好奇心を満足せしむる底のものに過ぎぬと思うは非常な誤りである。玩具には深き寓意と伝統の伴うものが多い。換言すれば人間生活と不離の関係を有するものである。(中略)その形態の内に捨て難き美を含んでいるのである。地方僻遠の田舎に、都会の風塵から汚されずに存在する郷土的玩具や人形には、一種言うべからざる簡素なる美を備え、またこれを人文研究史上から観て、頗る有意義なるものが多いのであるが、近来交通機関が益々発達したると、都会風が全く地方を征服したるとに依り、地方特有の玩具が益々影が薄れて来て、多くは都会化した玩具や、人形を作るようになって来たのは如何にも遺憾である。〈土俗玩具の話〉(大正14年9月)
この寒月の危機感は「美しいものの没落する時間にも針は進む〈こけしの微笑〉」と13年後に言った深沢要の危機感とも共振している。
また「オモチヤの十徳」として玩具趣味の効用を次のように上げている〈日本新聞「亡び行く江戸趣味」大正14年〉。
一、トーイランドは自由平等の楽地也。
一、各自互に平和なり。
一、縮小して世界を観ることを得。
一、各地の風俗を知るの便あり。
一、皆其の知恵者より成れり。
一、沈黙にして雄弁なり。
一、朋友と面座上に接す。
一、其の物より求めらるるの煩なし。
一、依之我を教育す。
一、年を忘れしむ。
こけしについても関心を持って蒐集活動をしたようで、斉藤昌三はこけし蒐集の草創期に触れて、「この玩具趣味を今日のように一般化さした裏面の貢献者は、清水晴風や淡島寒月翁等の蒐集から始まった」と書いている。関東大震災では、本人が「すってんてん」と表現したようにその全てを失ってしまったが、もし残っていれば貴重なこけしも多くあったであろう。

ほとんど趣味に生きたような人生でその年齢ごとの主な関心事は次のようなであった。

年齢 関心事
20歳まで 西洋文物思想に心酔した時代
22歳より24、5歳 西鶴その他の珍本を漁った時代
25歳 禅学
27歳 古美術研究
29歳前後 考古学
37歳頃 キリスト教
40歳 進化論的唯物論
47歳 社会主義
55歳 輪・泥人形・埃及(エジプト)趣味
晩年 日本及び西洋玩具コレクシヨンおよび絵・能・謡曲研究
  生方敏郎〈食後談笑〉より

山内金三郎こと神斧は寒月の梵雲庵訪問の様子を次のように書いている。
「翁の居開に続いて、奥まった納戸のやうな部屋があって、この二間には翁が六十余年間の蒐集品が、うづ高く積み飾られてゐた。翁の座右では古風なガラス棚が中心となり、納戸の方では古い大長持が主人顔をして中央におさまってゐた。アトリエには炉が切ってあって、翁と対座して二、三人も入れば身動きもできないほど、蒐集品や翁の作品でいっぱいになってゐた。だからよく縁側に日向ぼっこをしながら筆を執ってをられた。
 庵のささやかな門をくゞると、笹の植込みが眼につき、次にその傍に掛けてある絵馬が眼につく。此の絵馬こそ梵雲庵晩年の名物の一つであって、絵馬の表には猪を描き、裏には犬の絵が描いてあった。この絵馬が云はず語りに翁の、在否を物語るもので、犬の方が表を向いて居る時は、居ぬの意味で不在である。それへ反対の猪の方が表を向いてゐるときは居の意味で在宅なのだ・・〈梵雲庵雑話「淡島寒月翁」〉」


淡島寒月翁の印象 山内神斧 〈梵雲庵雑話〉より

山口昌男は寒月の後ろにトト神(トリックスター神ヘルメス)が描き加えられていることに関して、これが寒月からの注文なのか、神斧の寒月に対する象徴的イメージだったのかを気にしていた。ヘルメスはトリックスターとして相反する二つの世界を行き来して、新しい統合を生み出す神でもある。

幸田露伴に「淡島寒月のこと」という小文がある。

〔参考〕

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