西澤仙湖

西澤仙湖(本名大石米次郎)は、元治元年4月近江国大津(現在の滋賀県大津市)に穀問屋鍵甚大石甚太郎、リウの次男として生まれる。3歳の時に父が病没し、後妻であった母の実家大津四の宮町の母の実家に戻り、西澤姓を名乗る。明治18年夏実家の琵琶湖を見て琵琶廼舎仙湖と号し、また別号は雛舎ともいう。明治22年2月、神田連雀町の通人、俳人の江澤梅逸(本名松五郎、実家は青物問屋)の姉かねと結婚、三女をもうけ、日本画家の西澤(石川)笛畝を長女勝子の婿とした。この当時深川区佐賀町に居を移し、以降当東京では、神田駿河台、向島三圍祠畔、浜町2丁目と移り、明治32年に本所横網2-7に居を構えて没するまで居住した。大正3年4月9日逝去、行年51歳。諡して峰雲院仙湖證道居士という。

西澤仙湖

実業家であるが、趣味生活を大切にして、明治年19年寄稿していた〈團團珍聞〉の社長野村雨荘、記者長井金升が大津四ノ宮を訪ね、これ以降大津を離れ、二人に伴って東京に移る、京橋八官町の伯父西澤眞二朗方に寄寓した。
一時信州の道路開鑿のため塩尻に赴任したが、やがて南卯平が社長をしていた土木商社「現業社」に入社、当時東海道本線の箱根トンネルの開鑿を請け負っていた。
以後は神田神保町にあった馬車貸付業の高等馬車会社に入ったが、明治25年表神保町にあった勧工場南明館の大火で類焼し、敷地を帝国ホテルに売って解散した。深川の米倉庫会社の支配人を経て、常陸土浦町の銀行設立に際し顧問に就任した。明治29年今井喜八、江崎礼二、神谷伝兵衛等と浅草銀行新設により、設立後支配人になる。明治32年米倉倉庫の監査役、大日本製糖会社の事業等に参画していた。また明治38~9年には、鈴木久五郎、富倉林蔵などの、相場師の参謀として、株式界にも活躍したことも有った。明治41年3月浅草銀行が、豊国銀行に合併したのを機会に実業界を去った。
以降病身を養いつつ趣味の世界に専心し、明治時代を代表する人形類等のコレクターであった。

幼い時から、文字を覚え和漢の書を読み、洒落風雅を旨とした東京の雑誌〈團團珍聞〉の誌友として歌や文章を投稿し、この縁から京都の画家久保田米僊と交友を結ぶ。また寄稿家の域にとどまらず、仙湖は明治23年1月雑誌『しののめ』を発刊、廃刊後〈あずまぶり〉、明治26年春には『今模様』廃刊の後、〈七色雑誌〉などの雑誌を続けて発刊している。明治29年12月一連の雑誌で中心人物江澤梅逸の死去で中止になった。晩年は明治42年6月に第1回を上野常盤華壇で開いた「三勝筵」で、詩歌、聞香、點茶の三勝を旨として、参加したのは盒田香遠、村田丹陵、寺崎廣業、川合玉堂、和田英作、笹川臨風、竹内久一(久遠)、久保田米斎、鳥居清忠など、芸壇、文壇の重鎮であった。明治43年6月の第2回に際しては、一中節を地方として、鳥居舞いを披露、この演技は一中節を地とした嚆矢である。
五代目菊五郎の「遊食會」に対抗して作られたのが「綺肴会」で、見立ての食物を持ち寄り品評する集まりで、江澤菜魚、堀野文禄、加納鉄斎、幸堂得知、岡村綺堂、要屋主人等が参加した。また同好の士を集めて書画骨董交換会を企画したが、これは両国美術倶楽部に発展した。
仙湖が最も力を入れて蒐集していたのは雛人形であるが、浮世人形(衣装人形)、嵯峨人形、加茂人形、御所人形などを広く集め、また奈良人形、伏見人形、一文人形、茶の木人形、浅草人形、等から筑前大宰府うそ、肥後の木葉猿等の郷土玩具にも及び、当時の台湾、朝鮮、満州、布哇等の玩具にも興味を持っていた。また、高倉雛の名称、著名の人物と雛、上己の節句と端午の節句、春遊びの種々から、双六、羽子板、紙凧、独楽、破魔矢などあらゆる分野に及んでいる。
〈仙湖随筆〉の「人形雑考」によれば、「回顧すれば自分が、人形に興味をもってその蒐集を企てたのは明治21年の事である。今日まで二十年間に六千余を集め得た。相当に集めたつもりである。これだけ集めるうちには多少失敗談があり、偽物を背負い込まされたり、法外な高い値を払ったりした事もあったが、おかげで今日では多少の知識を貯ふる事が出来た。~ 迷信などはその時代の人形玩具の上に極めて判然と現れてゐる」(原文ママ)
また同書によれば「仙湖雛人形を愛する事特に強く、蒐集多年、晩年に及びて天下の逸品多くはその手に帰し、所蔵において、鑑賞に於いて斯界の権威として推された。その始めは明治21年の交、神田小川町の古道具店で一箇の古代雛を求めたるに始まる」(原文ママ)とある。
こうした中で、明治42年5月には満を持して「大供会」を結成し、そこで人形や玩具についての知識を交換しあった。第1回は西澤仙湖邸で、清水晴風、久留島武彦、水谷幻花、石倉米豊、久保佐四郎、磐瀬玉岑の7名が参加したが、初期の大供会は正に、仙湖と晴風の二巨頭の独壇場であった。第2回は清水晴風邸、西澤仙湖、久留島武彦、水谷幻花、林若樹、石倉米豊、宮沢朱明、廣瀬辰五郎の8名、この時の集古会の記録を見ると、発言記録は晴風、仙湖、若樹、の三人のみである。
明治44年7月30日発行の〈集古会誌〉の大供會談話録其一によると「如何ならん人も其の幼き折を顧みん程楽しき思い出多きはなかるべし実にや上は王侯将相より下は市に物乞う下賤の輩に至る迄一人として無邪気なる小児の時代を経ざるはなきをやいで其幼き折の遊戯、唱歌、玩具其の他何くれとなく夫れに関するとを語り研めんとて同人西澤仙湖方に会せしは明治42年5月なりき惜しむらくは其筆記を逸せしことなり為に第2回よりの筆記を載せ始む」とあり、残念ながら第1回の記録がない事を述べている。

大供会談話録 其一 人形の話で仙湖の独壇場であった

その為明治42年11月29日の第2回よりの筆記によれば、半分以上の発言は、仙湖である。「仙湖曰 俗に御土産人形と称する小児裸形の人形は大阪にては泉倉人形といひ京都にては御所人形、名古屋にては御雛人形、飛騨にては這ひ子といへり~」「仙湖曰 かゝる一人形に就いても個個の名称ありて一定ならせざるは不便なりと思ふ、何とか名称を定めたし予の思ふには京都にていふ御所人形といふが最穏当ならん」と発言し「衆皆此の説に賛して今後これ等の人形に対して我等同人は御所人形と称することに議決」と書かれている。まさに昭和15年の鳴子において東京こけし會が色々な呼び名の在ったものを『こけし』という呼称に統一したようなことが、ここで行われていたのである。「仙湖曰 俗に衣装人形と称するものにても種々製作上に相違ありて~予の蔵品は便宜上全体の人形を浮世人形と称し、その下に木彫石衣装、木彫きせつけ、型ぬきの衣装、同きせつけの四に分てり~古くは人形は木彫多く型抜きになりたるは享保以後なり」等々仙湖の独壇場である。
林若樹は唯一の発言として「仙湖君のいはれし上等の人形類 土俗的の人形とは源を異にし居る様に思う。一は仏師側より起りて玩具とはいえ置物、飾り物に近し、型ぬきの衣装人形は享保以前になしと言わるれば、享保に至りて上等の人形と土俗的の人形とが相接したりと見るも可ならん」(以上原文ママ)等の発言があり、大供會は正に人形玩具類の先進的、指導的位置にあった。
第3回は林若樹邸、明治42年11月29日の記録は、明治44年7月31日発行の〈集古会誌〉の大供會談話録其二掲載、林若樹、坪井正五郎、和田仙吉、久保田米齎、西澤仙湖、清水晴風、内田魯庵、幸田成友、久留島武彦、磐瀬玉岑、廣瀬辰五郎(伊勢辰)、宮沢朱明、赤松範一、三村清三郎(竹清)、岡田村雄の15名出席した。この時は坪井博士、若樹等の子供の歌う歌詞、俗謡等。以下亡くなるまで参加している。
その後、淡島寒月、フレデリック スタール、内田魯庵,幸田成友など多種多様な人材が参加した。この頃は仙湖にとって実業界を去った時期であり、また人生の中で最も輝いた時間でもあったようだ。
人形一品會は第1回を明治44年11月東京神田の青柳亭で開催した。西澤仙湖、清水晴風、林若樹が幹事となり、人形を土製・木彫・型技き・雛の四部に分けて展示した。大正元年秋からは会場を三越呉服店で開催、没するまで一人一品を持ち寄り公開した。また坪井正五郎、巌谷小波、清水晴風等と三越児童用品研究会顧問としても活躍した。仙湖はまた〈人形類纂〉の編述を志したが病気為果たせなかったのは残念である。
いずれにせよ,仙湖の集めた6千点以上の膨大な人形類は、娘婿の西澤笛畝の「人形玩具文化の会」に受け継がれ、現在はさいたま市の「岩槻人形博物館」に受け継がれている。仙湖のコレクションにどれくらいこけしが有ったかは、不明であるが大正初期に亡くなったことから、郷土玩具の一部にわずかにあったかも知れない。晴風のコレクションを観てもこけし専門の蒐集家が出るのは、大正後期からであろう。しかし、こけし蒐集家が生まれてくる素地としての人形や玩具を中心としたネットワークを作った功績は大きい。
仙湖が趣味により作り上げたネットワークは広範囲にわたり、画家では寺崎広業川合玉堂鳥居清忠和田英作、文学史家の笹川臨風、劇評家の幸堂得知、民俗研究家の林若樹坪井正五郎久留島武彦清水晴風、そして文学者の巌谷小波内田魯庵などがあげられる。

〈仙湖随筆〉(昭和2年)

仙湖遺稿をまとめた〈仙湖随筆〉(昭和2年)の序で茅ヶ崎小雨荘斎藤昌三は以下のように述べている。「明治の時代も大分距離がでてきていた。昨今、一にも明治、二にも明治と、明治の文化研究は今や江戸研究に引続いて、それ以上の興味ある研究上の一科目となって来た。この際、一代を趣味生活に送った明治の逸人仙湖翁の、時に折に、かきよせられた雑稿、随筆を上梓して置くことも無意義であるまいと信ずる。~ 本書は遺稿の一部として翁の近親、江澤菜魚氏が、秘蔵されたものを根底とし、修正して一篇とし、広く同好者に発表した次第で、この上梓に付いては笛畝氏の御厚意は勿論、江澤し砂山岳紅氏の御奔走を多とする。~ 翁に就ては大正期以降の若い方には余り記憶もないかも知れないが、~ 兎に角明治の趣味会には忘れることの出来ない一大明星であったことは今更説明を要しない」と書く。
なお本書の内容は、1、煙草及煙管 2、人形雑考 3、双六考 4、仙湖漫録 5、平賀源内伝 付録仙湖翁略伝である。この内仙湖漫録は、凡そ70項目の雑考で、日食度数、梵語、動物歳時記、都風俗、地誌、舶来草木、建物、官位、生活用品、芝居、遊女、狂歌、食品、語源などの考察である。仙湖翁の略伝には、1、少年時代 2、出京後の生涯 3、趣味生活 4、家庭に分かれている。

大正2年5月26日には坪井正五郎がロシアのサンクトペテルブルグで客死し、7月16日には清水晴風が病没、大正3年4月9日には仙湖が世を去った。大正3年10月に大供会では三氏の追悼記念会を開催した。下掲写真左は追悼記念会陳列品目録の表紙。

大供会三氏追悼会

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