坪井正五郎

東京において、明治から大正にかけて古物、故実、風俗、玩具の蒐集、調査、鑑賞に関わる活動を組織化した人物。「竹馬会」「集古会」「大供会」「流行会」など人形、玩具に関わるかかわる多様な活動に関わった。交際が広く、これらの重層的なネットワーク活動の常に中心、あるいは重要な結節点に居て、その輪を活性化させ、また広げた。
こけしに関わる活動も、その出発点において坪井正五郎が関わったものは多い。

坪井正五郎

文久3年1月5日、江戸の両国矢之倉(現・東日本橋)に生まれた。父は幕府奥医師(蘭方医)坪井信良、母は江戸の蘭方医坪井信道の娘万喜子である。父の信良は越中国高岡の医師佐渡養順の二男であったが坪井信道の婿養子となった。正五郎は明治10年に大学予備門に入り、明治19年帝国大学理科大学動物学科を卒業した。さらに帝国大学大学院に進学し人類学を専攻、修了後の明治21年帝国大学理科大学助手となった。翌年より3年間イギリスに留学し、明治25年10月帰国し、帝国大学理科大学教授に就任した。
この頃から、在野の研究家林若樹が助手として出入りするようになった。林若樹の祖父の林洞海と正五郎の祖父信道とは蘭学者仲間で親交があった。
この年、蘭学者箕作秋坪の長女直子と結婚した。箕作秋坪は箕作阮甫の養子となった蘭学者であり、箕作阮甫は坪井信道と同じ宇田川玄真門の蘭学者であった。
明治32年に理学博士となった。日本の人類学の先駆者であり、日本石器時代人=コロポックル説を主張したことで知られている。明治36年の第5回内国勧業博覧会では学術人類館に協力した。大正2年年、第5回万国学士院大会出席のため滞在していたロシアのサンクトペテルブルクで、急性穿孔性腹膜炎のため客死した。行年51歳。

坪井正五郎は学生時代から玩具蒐集に興味があり、また活発に執筆活動を行って雑誌等を作っている。明治12年17歳の時に仮名垣魯文、内田魯庵、巌谷小波らと玩具研究の「竹馬会」を結成。
明治29年に坪井正五郎は自分の研究室の若手だった八木奘三郎や林若樹に実務を担当させ、発起人に佐藤傳蔵、大野延太郎(雲外)、八木奘三郎、林若吉(若樹)、田中正太郎据えて「集古会」を始めた。「談笑娯楽の間に考古に関する器物及書画等を蒐集展覧し互に其智識を交換する」(集古会規則第一条)ことを目的とした。初号に坪井は「貝塚土偶の穴」という一文を寄稿している。

集古会誌第1号 坪井正五郎稿 明治29年11月

人類が肉体的あるいは精神的に関わる器物や愛玩物に坪井正五郎は強い関心があったのだろう。さらに、明治42年には人形や玩具を愛好するものたち、清水晴風、久留島武彦、西澤仙湖、林若樹、広瀬辰五郎らと「大供会」を組織し、また三越百貨店が芸術文化的な広報活動を目指して立ち上げていた「流行会」などに参加、その企画で開催された第1回児童博覧会には審査員をつとめ、「子供に関する注意の進歩」という講演を行った。「流行会」ではメンバーとして玩具の開発などにも貢献した。
坪井正五郎の活動分野は草創期の人類学であったためかなり学際的であった。その当時の東京帝国大学自体でも、「大学内部でも科を異にする人々や又は大学以外の人々に向かって各学科の仕事の大要を知らせる」ことが重要とされ、各教室単位で学術的な展覧会を行うことがしばしばあった。坪井が担当していた人類学教室では「如何に材料を集め、如何に之を研究して居るか、其結果は如何と云ふが如きを示す」ことを目的として、「人類学標本展覧会」などを催した。明治37年の6月3日から5日まで開催し展覧会では、初日の金曜日が学内関係者への内覧会、4日の土曜日と5日の日曜日は一般への公開という構成でわずか3日の会期であったが、来場者は6000人を超えたという。

人類学の創始者として鳥居龍蔵などを育て、また柳田国男と南方熊楠を結びつける役割も果たしたという。学問の領域でも、趣味の領域でも多くの活動の出発や発展を誘導するオルガナイザーであった。

 

〔参考〕

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