西田静波

西田亀楽洞 静波

西田静波は明治31年9月4日生まれ、本名は清次郎、堂号は亀楽洞。大阪市東区横堀2丁目17番に居住していた。棕梠(シュロ)商で、主に刷子(サッシ、刷毛)製品を商っていた。大正初期から郷土玩具全般を集め、特に亀の郷土玩具が始まりだったので亀楽洞と号した。娯美会のメンバーで、やがて河本紫香の主宰するやつで会のメンバーにも加わり、こけしはこの時期に一番集めたという。周助、久四郎、胞吉など名品揃いであった。さらに橘文策のこけし研究会、渡辺鴻の会員でもあり、最後は関西こけし會の主要メンバーであった。戦後になって蒐集品は梅田書房が催した売り立て会で市場に出たが、規模の大きな売り立て会で「亀楽洞売り立て会」として記録される。現在のこけし入札会においても、亀楽洞のシールを貼ったものの出品が時々見受けられる。

亀楽洞より橘文策宛ての葉書

亀楽洞売り立て会

戦後の関西地区のこけしの売り立て会。販売記録によると、「こけし割愛と鑑賞会」が、昭和21年2月5日から7日まで梅田書房主催で、米浪、深澤斡旋により、梅田阪急百貨店で開催された。〈こけし辞典〉によればこれが戦後初めて開かれたこけし売り立て会と云われている。
ところで、鹿間時夫は「昭和23年1月大阪梅田書房での亀楽洞の古品売立会~亀楽洞売立の時は尺5寸(45.5cm)の周助(当時350円)、直助、きん、源吉、乗太郎、島津など16本求め僅か883円であった。全部こけしを焼いてしまった山下光華氏が『あんたはまだ熱があるのか』と驚いていた。この時は京都から開催時刻に間に合うよう駆けつけたが、滋賀県の井上多喜三郎氏に先をこされた」〈こけし鑑賞〉と書いている。


亀楽洞売り立て会で鹿間時夫が購入した源吉(岡崎久作名義で出ていた)

また〈こけし・人・風土〉の「木華子堂のこと」(山下光華のこと)には「因業なものだ、こけし病というものは。しかもその後、木華子堂がわたしたちからさっていった後も、まだチャンスはあった。古い蒐集家のコレクションが一度に売物にでた」と書いているので、如何にこの時の売り立てが大きく衝撃的であったかが推察できる。
この大阪梅田書房が主催した「こけし割愛の会」で、亀楽洞の古品の売り立てが行われた第1回目は戎橋書房(梅田書房の支店)が会場であり、昭和23年1月15日の開催、鹿間時夫は購入したこけしを正確に記憶し記載している。

第2回、第3回売り立て会

梅田書房の山内金三郎が幹事による第1回亀楽洞西田静波蔵の売り立ては凡そ500本以上があったという。その後も他の愛好家からの出品も含め、第2回戎橋書房、第3回神戸阪急フルーツパーラー(梅田書房の支店)等と何回か売り立てがあったが、第1回が質量とも最大の企画であった。
この時の記録は、〈牛鬼草紙 第4部 こけし雑筆〉(昭和23年11月10日発行 山本万雄)に川口貫一郎が詳しく書いている。「一月十五日戎橋書房にて開催を知り当日を待つ事をそし、同朝余りの寒さについ一番の急行に間に合うはず二番にて出発す。上本町着午前十一時を過ぐ時々霙交じりの吹雪となるもきびし。心斎橋筋を行くほどに偶然青山氏(一歩人)に合ひ同道会場に急ぐ、番頭を兼ねての山内氏に心よく迎へられば、既に同志井上多喜三郎、鹿間時夫、山下光華諸氏の面々割愛を終られしと云う。同店書棚の前に約五百本大小色とりどりに陳列入口正面に胞吉、久四郎、周助等大物を配す。お互いに話す間にも次々と割愛され行くが心残りか寂しく吾も四五本を求皆愛すべく美しく保存されあるが嬉し。計らざりき京都なる新蒐集家綾太郎氏に面接、選定のお手伝ひしておすすめをした事であった」ここから分かるのは多分井上に鹿間が先を越されたと書いたのは胞吉の事であろう。鹿間は常々胞吉だけは木村有香博士から貰った輪入りの一本のみで、縁がないと言っていたのを思い出す。
さらに川口は「書房は書籍が主なる為本催しは御得意のお勉強の意味もあって安く評価をしと云う、それかあらぬか大変安値なりしは蒐集家にとって好評且つ大成功なりし事と思はれる。それにしてもマニヤに欠あるは橘、米浪、寺方の諸氏及び梅谷氏に面接するを得ざりき。思ふにインフレとは云え旧蒐蔵家の割愛される心理たるや淋しい限りであろう、私に思比らべて心をうつものがある。涙なしに眺め終らしたくはなかったのであった青山氏も淋しい事であると云って居られたが然しこれも敗戦の憂き目仕方がない。或は考へ直して一面新蒐集の為の導火線ともなってこけし自身は立派に完全に育くまれてゆく事であろうとあきらめ安心をするが賢明であると思ふ。旧にしかずとも尚こけし熱衰へずこけしは関西からの標語を永くおわりたいものと念じてやまない私である」(原文ママ)
川口貫一郎は良いこけしが安くなって入手できることを評価しながら、それこそ苦労して集めたこけしがを安値で処分せざるを得なかったことに心を寄せている。この当時食糧難で、各種の統制もあり、米や野菜、肉などは高値でしかも手に入りにくかった。いわば需要の価格弾力性の低いこけし等は奢侈品として高値で処分出来なかったのである。戦争や動乱、震災、疫病等の際はこうした傾向はいつも起こる。第1次こけしブームを経て、終戦後にこれからこけしをさらに集める趣味人と、僅かの余熱でほとんど辞めてしまう人がいたようで二派に明らかに分かれるのであろう。社会の変動期には関西ばかりでなく、東京でも、その他各地でも多かれ少なかれこうした事が起った。

川口貫一郎〈こけし雑筆〉

〔参考〕

 

 

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