井上多喜三郎は明治35年滋賀県近江八幡市で呉服屋の長男として生まれ、老蘇小学校高等科卒業後、安土町西老蘇の呉服店主として主に呉服の行商を行っていた人。堀口大学に師事した詩人としても知られている。またこけしの蒐集家でもあった。
昭和20年に43歳で応召され、その年敗戦を迎え、ウラジオストックなどで約1年半、収容所で抑留生活を経験した。
戦後はコルボオ詩話会、〈骨〉同人を経て、近江詩人会の設立に関わった。また町教育委員や商工会会長、PTA会長などを歴任し、公人としても地域への貢献が大きかった。昭和41年64歳のとき呉服行商の途次に交通事故に遭い世を去った。
詩集、関連著作、自筆本などの図書計117点(210冊)は遺族により安土町立図書館に寄贈された。
平成14年に外村彰著の〈近江の詩人井上多喜三郎 〉(別冊淡海文庫)が出版され、また平成16年に井上多喜三郎全集刊行会により〈井上多喜三郎全集〉が出版されている。
近江八幡市立老蘇小学校内には多喜三郎の詩碑「私は話したい」が建てられている。碑文の詩には「目白やきつつきと 熊やリスと きき耳ずきんなんかかむらないでも 君たちの言葉が解りたい 私のおもいをかよわせたい もろこやなまずに 亀の子や蝶々に 降りそそぐ日光の中で、やさしい風に吹かれながら つばなやたんぽぽと ゆすらうめやあんづと」とある。
井上多喜三郎はこけしの蒐集家でもあり、戦後昭和23年1月大阪の梅田書房の支店戎橋書房で開催された「亀楽洞売り立て会」では、復員間もない身ではあったが安土町から大阪戎橋まで駆け付け、一番乗りで優品を多く獲得したという。鹿間時夫もこの売り立て会に参加、「この時は京都から開店時間に間に合うよう駆けつけたが、滋賀県の井上多喜三郎氏に先をこされた。」〈こけし・人・風土〉と悔しがった。
〔参考〕