木形子綺譚

佐藤利雄稿の「木形子綺譚」は昭和12年7月8日の新聞東京朝日に掲載された。
深沢要の〈こけしの微笑〉に「『朝日新聞にこけしの記事がのっていたのを御読みになりましたか』と何度か人に尋ねられたことがあった。読んでいないのを残念に思っている時、小沢一蛙氏の御厚意で読むことが出来た。」とある。
深沢要の記事要約と感想は次の通りである。
「内容を事実の報告とすれば、私には新しい宿題であった。幾百本幾千本のこけし愛蔵者、劇作家のNとは誰だろう。N氏を感激させ、狂喜させたこけし作者、A温泉のSとは誰だろう。Sは『こけし界不世出の天才』であって、山上の一軒家に娘と二人で暮らしていた。娘は男に棄てられ、愛児を亡くしてから、父の造ったこけしを片時も離さず『坊や坊や』と可愛がるので、村の人達は『きぼっこ気違え、きぼっこ気違え』と呼んでいたのであった。父は盆、椀、杓を造ってほそぼそと家計をたてる傍ら、こけしを造って孤独と悲劇の晩年を自ら慰めていたが、娘は再び身重となり、家計も逼迫して、遂に父は娘と渓谷で無残な死を遂げた、と云う話なのである〈こけしの微笑〉」

東京朝日(昭和12年7月8日)「木形子綺譚」

ただこの東京朝日の記事全文は下記の通り。深沢要約よりかなり猟奇的である。


 一寸した用事があって、劇作家のN氏を訪ねた。そして私は氏の書斎に飾られた木形子・・・大小さまざま、色とりどり、幾百本幾千本となく夥しく蒐集された木形子(轆轤挽の木人形)の群に一驚した。そればかりではない、氏の木形子研究は、現在木形子の作られるところは、本年一月現在で六十七ヶ所、作者は百三十一名、その全部が東北に限られてゐること、系統は、代表的なものとして、福島の土湯系、宮城の遠刈田系、弥治郎系、鳴子系、岩手の花巻系、青森の温湯系、秋田の木地山系の七大系統に分けられるといふこと、しかも、そのどの一本を取ってみても、佯(いつわ)ることの出来ない作者の個性が滲み出てゐること等、聞かされれば聞かされる程驚嘆の他はなかったが、自分も行李の底に木形子を一本持ってゐることを思い出し、それをいひ出さずにはゐられなかった。
 それから二、三日後、行李の底から木形子を捜し出した私は、それを持ってまたN氏を訪ねた。ところが!それが図らずもN氏を感激させ、狂喜させてしまったのだから面白い。
 「ほう、こりゃ傑作です。素晴らしい傑作です。いったい、誰の作でせう?見事な胴の菊は遠刈田系と・・・さうさう、バカに頭もでかいし、A温泉のSの作ぢゃないですか?」
私が内心よく判ったものだと感心しながら點頭(うなづ)くと「矢張りさうですか、よく手に入りましたねえ。僕も故人のいいものなど随分苦心して捜してゐるんですが、中々手に入らないんです。鯖湖(福島県)の渡辺角治なども大変いいものを作ったので態々訪ねたんですが、もう何一つありませんでしたよ。しかも、有名な寡作者で何十年も前に物故したSの作など、どうして手に入れられたんです?」と云って、N氏は怪訝な顔付きをされた。それもその筈、この木形子に就いては、私にとっても忘れられない挿話(エピソード)があるのだった・・・。
 話は十余年まえの昔に遡る。私は其頃、A温泉に長い間滞在してゐた事がある。A温泉といふのは東北本線N駅から鉄道馬車で六里、さらに徒歩十数丁の山間に在った。宿屋は三軒、私は驛(馬車の)近くにすんでいたが、ある夜明け方の事・・・・
 ひどい悪夢にうなされてゐた私は、ふと目が覚めた瞬間、ひやッとした。襖の割れ目からキラキラ光る二つの眼がきッと私を睨みつけてゐるではないか!私はがばっと跳び起きた。と同時に、強盗だと思った闖入者を見て二度吃驚した。女なのだ、しかも少女なのだ。「火、火!」と喚きながら、女は階段を駆降りた。
 そして素早く囲炉裏の杉葉に燐寸を擦った。炎を見るや女は手を拍って狂喜する。呆気に取られていると兵児帯で負んぶした子供(それがよく見ると座布団に包んだ木形子だったのだ!)を下ろして、それに頬擦りしながら「坊や、当たった当たった(火に当たれの意)」と火に翳(かざ)してやるのだった。女はしばらく当たっていたが、急にぶつぶつ怒り出したかと思ふとぷいと戸外に飛び出してしまった。思わず外に出てみると、女は釣橋の上を温泉場のほうへ駆けてゆくところだった。橋の上は霜が雪のやうに白かった。
・・・隣の蹄鉄屋(かなぐつや)のお内儀さんから、凡ての事情を聞く事が出来た。女は山の上の一軒家で、父親とたった二人の暮らしだった。父親は轆轤を唯一の資本に盆、椀、杓など温泉場の土産物を作ってはほそぼそと家計を樹てている年老いた木地師だった。
 女は発電所工事の某と子まで生んだが、型の通りに男に棄てられ、おまけに愛児の死に遇ひ、それやこれやで気が変になってしまったのだといふ。それから、父親の作った木形子を片時も離さず「坊や坊や」と可愛がるので、村の人達は「きぼっこ(木形子)気違え、きぼっこ気違え」と呼んでいる、との事だった。
 その後、私は湯小屋で女に遇った。湯小屋といふのは私のところから数丁、栗林の蔭に在って、しかも一方は千仭の渓川に臨んでゐた。粗末なバラック建だったが、湯は非常にきれいで岩窟に滾々と溢れてゐた。私はこの原始的な湯小屋を愛した。そして深夜、一人で何時間も何時間も湯に浸ったり、長々と大の字に寝そべったりしてゐるのだった。或る夜。何時ものように湯小屋に行くと中で人の気配がする。「今晩は」と挨拶したが返事がない。懐中電灯でよく見ると、女・・・それがいつかの闖入者だったのだ。それから私は深夜の湯小屋で幾度彼女に出遇ったかわからない。月夜など、バラックを洩れて月光が芒のやうに強く流れて来る。塑像のやうな彼女の裸體。
 と、と、と、と・・・・・湯は神秘的な音を立てて湧き溢れる。女は月を見て笑いながら、よく雪を喰べた。それは懍艶と云はうか、怪奇と云はうか、まさに鏡花の小説の一場面だった。だが、それにも増して忘れられないのは、女が木形子の「坊や」を抱いて泣いたり笑ったり喚いたり、かと思うと塑像のように黙りこくって身動きもしない萎れた姿だった・・・・・
 ところが、・・・・三月も終わりに近い或る日、彼等親子は渓底から無残な死體となって発見されたのだった。娘は何時かまた身重になってをり、家計もいよいよ逼迫し、それやこれやで父親が死を計ったのだといふ。父親・・・それが今、N氏の激賞してやまない木形子の作者S老人だったのだ!
 ・・・あれから、十余年になる。しかも今、当時何の気なしに求めてゐた一本の木形子が、N氏をかくも狂喜させ、感激させようとは!
「実際、これは素晴らしい傑作です。どうです、首から胴に流れた線といひ、それに何よりもこの色彩-御覧なさい。まるで植物からぢかに色素を搾り取ってゐた頃の美しさぢゃありませんか。実に素晴らしい。Sの作など今時分鯱立ちしたって手に入りませんからねぇ。」興奮にN氏の頬は熱して来た。
 ・・・・・・あの、変人といわれ、黙狂のやうに黙りこくっていたS老人が、そんな傑れた工人であり、「木形子界不世出の天才」(N氏の言葉)であったとは!思うに老人は盆、椀、杓を作ってほそぼそと家計を樹てる傍ら、木形子の製作にその全精魂を打ち込んでゐたのではなかったろうか?そしてあの孤独と悲劇の晩年を自ら慰めていたのではなかったろうか?十余年後になって、私はS老人の心境にしみじみ頭の下がる思ひがした。(をはり)


これは佐藤利雄の創作であろう。ただ佐藤利雄がいかなる人物か不明だが、東京朝日に「二本松敗衂秘話」(昭和10年11月)等の掲載もある。
深沢要がこの話を創作と即断しなかったのは何故だろう。おそらく昭和12年当時はまだ東北のどこかに未知の工人が存在している可能性があり、その発掘に幾許かの期待があったからかもしれない。

〔参考〕

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