日本の洋画家、童画家。岩手県内の美術教育にも尽力した。武井武雄と交流があり、郷玩、こけしにも関心を持ち、自らも蒐集した。
明治32年3月24日 に盛岡市で生まれた。盛岡中学、東京美術学校西洋画科で藤島武二に師事。在学中から雑誌〈赤い鳥〉に挿絵を描いていた。大正11年、同郷で東京女子美術学校で学んだ四戸紅子と結婚した。夫婦で画家生活を送った。
昭和2年、初山滋、武井武雄、川上四郎、岡本帰一、村山知義、清水良雄らとともに、第1次日本童画家協会を結成した。
昭和13年、従軍画家として現在の内モンゴル自治区へ渡り、美術研究所を設立した。敗戦後、盛岡に戻った。盛岡では岩手県立美術工芸学校や岩手大学特設美術科の教授を歴任したが、昭和39年に退官して東京にアトリエを建てて移った。
平成4年3月24日に没した。
なお、令和元年には、岩手県立美術館(盛岡市本宮)で、企画展「紅子と省三-絵かき夫婦の70年-」が開催された。
武井武雄と交流があり、また自らもこけしに関心を持ち、昭和初期のこけしを多く所蔵していた。盛岡の出身ということで蒐集界にも産地の情報を提供する等の協力を行った。深沢要が宮古の坂下権太郎をこけし作者として蒐集界に紹介した時の重要な情報提供者であった。
深沢省三旧蔵という古品が入札に出たことがある。
〔参考〕