新山みわ(にいやまみわ:1851~)
系統:弥治郎系
師匠:新山いくの
弟子:
〔人物〕嘉永5年2月28日、宮城県刈田郡宮村八巻佐蔵の三女に生まれた。弥治郎の新山栄七の妻となり、長男栄五郎、二男栄助を生んだ。二人挽き時代には栄七の綱とりをし、また描彩も行ったという。栄五郎も木地修業の最初の年は、挽いた木地に母みわに描彩してもらい、二年目から自分で描くようになったという。描彩は手描きの簡単な花菖蒲(あやめ)などの胴模様だったという。栄五郎がロクロ線の巻き絵(引き絵)との折衷模様を描くようになったのは明治28、9年以降という。
みわの没年月日は不詳。
〔作品〕みわの描彩とわかる作品は残っていない。ただ、栄五郎の作に巻き絵を使わない手描きだけのこけしがあるが、おそらくその様式はみわが描いていたものからの伝承であろう。
下掲は新山栄五郎の昭和13年頃の作であるが、ベレーではなく手絡の頭頂、さらりとした草花の胴模様で、ロクロによる色付けは行っていない。おそらくみわや祖母のいくのが描いていた時代のこけしの様式を伝えたものであろう。
栄五郎の話として「幼いころ、祖父の永吉は既に木地を挽くのを止めていて、父親の栄七が妻のみわに綱取りさせて二人挽ロクロを回していた。きぼこなども沢山挽いたが、とても粗末なもので、蝋は無論掛かけず、底の方は鋸で切りっぱなしと来ているから、十本のうち八、九本まではよく立だなかった。祖母や母が唐紅と墨の二色で描いた面描や模様にしも、至って無造作で野暮くさく、現在のような垢抜けした綺麗なものではなかった。この家だけでなく、弥治郎ではどこの家でも、その頃きぼこやその他の木地玩具の描彩は、綱取りと同様、女房たちの受け持ちで、亭主の木取りしている間とか夜業に、一生懸命、絵筆をとっていたのだった。〈蔵王東のきぼこ〉」とある。
みわも盛んにこけしの描彩をしていたであろう。栄五郎は「巻き絵(ロクロ色帯模様)ばかりのなかにたまにこうした手描きの物を入れておくとよく売れることがある」と何本かに一本はこうした母みわ譲りの手描きのものを作っていた。
〔伝統〕弥治郎系 新山系列
〔参考〕