平瀬貞吉

平瀬貞吉(ひらせていきち:1906~1937)

系統:南部系

師匠:能代工業講習所挽物科講師

弟子:

〔人物〕 明治39年8月21日、米穀仲買人平瀬長蔵の次男として、秋田県仙北郡角館町に生まる。家は代々長八と称し、佐竹公遷封の折り、これについて水戸からきたといわれている。祖父長八は角館春慶塗を業としており、貞吉はその業をついだ。長兄の長城は塗物業と関係がない。三男松次郎は長八について木地挽きが上手であったので能代工業講習所の挽物科を卒業し、貞吉を手伝ったが、やがて商家へ養子に入り、のちに戦死した。四男は徳治、五男は金次郎である。四男徳治は後年兄貞吉型のこけしを作ったことがある。
貞吉は、仕事に熱心で、独創性にも富み、各種のスケッチをしては塗物に応用した。また、桜皮細工にも手を出し、角館人形という郷土人形やササラ舞いの人形を作っていた。昭和9年にサトと結婚し、一子喜一郎を設けたが、元来大酒飲みのため昭和12年5月19日脳卒中で没した。行年31歳。平瀬貞吉の詳しい調査は、田中舜二により〈木でこ・19〉に発表されている。貞吉に最初に接触したのは、昭和7年ころ角館こけしを追求していた深沢要で、〈こけしの微笑〉にその報告がある。その後、昭和10年ころ、秋田市登町の木地師小林鶴次の木地に描彩したこけしがある。

〔作品〕 平瀬貞吉は、5本ほど描彩し1本を深沢氏へ送り、残品は角館町役場の紹介で石川旅館に泊まった客に頒けたといわれる。現在、貞吉のこけしは、深沢コレクションのほか、三春のらっここれくしょんに2本ある。この2本は、〈こけしと作者〉に写真で紹介された。このこけしを集めたらっここれくしょんの中井淳の記録には、昭和11年の入手、恵贈者名として三浦辰雄を記している。貞吉のこけしは、イタヤ材のキナキナに、菊の胴模様、黒頭と細毛のビンに神経質な面描をほどこしたものであった。これらは平瀬貞吉自身が挽いたものではなく、小林鶴次の木地に平瀬が描彩を施したものと思われる。

〔20.9cm(昭和7年)(深沢コレクション)]
〔20.9cm(昭和10年頃)(深沢コレクション)〕

〔24.2cm、18.2cm(昭和7年)(らっここれくしょん)〕
〔24.2cm、18.2cm(昭和10年頃)(らっここれくしょん)〕

〔伝統] その形態から明らかに南部系である。角館の奥の檜木内には山田一家により安政3年ころより明治末期にわたってキナキナが作られ、角館で売られたという記録がある。深沢氏はこの角館古こけし復元を依頼したのであった。しかし、〈木形子〉の佐藤与始人の報告によると、角館の古いこけしは、白木かあるいは胴の上下にロクロ線を入れた程度のものであり、面描はなかったという。また、貞吉は深沢氏に「見本を送れ」といっている点、明治中期に休止したこけしを明治39年生まれの貞吉が知っているとは思われないなどの点から、貞吉こけしと角館古こけしとの間には断絶があるだろう。創作意欲が盛んなことぱ、塗物において示されていることを思えば、貞吉のこけしは郷土の人形作家の創作といってよいかもしれない。ただ、小林鶴次の挽いた木地の形態は古風で魅力的であり、それには何らかの背景はあったかも知れない。
なお能代の脇本三十郎は、5歳ほど年長であるが、貞吉弟松次郎と同様に能代工業講習所の挽物科で木地を学んでいる。この二人に何らかの関係があったかはわからない。

 

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