樋渡治一(ひわたしじいち:1906~1960)
系統:木地山系
師匠:高橋兵治郎
弟子:大類連次
〔人物〕明治39年8月2日、秋田県雄勝郡稲庭川連町川連久保の木地打師樋渡徳太郎、スエノの長男に生まれた。大正8年川連小学校を卒業すると、直ちに久保の高橋兵治郎につき立木木地の修業を始めた。弟連次も治一について木地を学んだので、昭和8年に連次が家を離れるまで約10年間共に働いた。
昭和7年、連次が郷土研究家の木村弦三の依頼により治一名儀でこけしを作ったが、連次は昭和8年大類家の養子となって家を出たので、その後治一は同型のこけしを継承して挽き、漆器の画工樋渡辰治郎に描彩を依頼した。これも昭和13年までに中止し以後は作らなかった。
妻サタノとの間に和夫、正見、治夫、進、六男、七夫、康子等六男三女がある。
昭和43年3月27日没、行年65歳。
〔作品〕昭和7年に治一名義で世に出たこけしは概ね連次の作と言われている。しかし連次は昭和8年に樋渡家から離れたのでその製作期間は1年足らずであった。
治一木地で樋渡辰治郎描彩のものは昭和8年から昭和13年頃まで注文に応じて作られた。木形子洞頒布の〈こけしと作者〉所載と〈こけし鑑賞〉所載の三本中の中央の物(下掲写真)は比較的多く見かけるが、その木地は胴太く肩張り頭も三角形か蕪形に近い。辰治郎は治一の依頼を受けて連次が描いた様式に沿って描彩していたと思われる。樋渡一家のこけしは、胴のロクロ線が赤、黒二色のだんだら縞で、早稲田のラグビー選手のジャージを思わせるのでラグビー型といわれた。たくましく雄渾な表情のこけしであった。
〔 26.0cm(昭和10年頃)(鹿間時夫旧蔵)〕樋渡辰治郎の描彩とされるもの。
〔15.2cm(昭和10年頃)(日本こけし館I)〕深沢コレクション
樋渡辰治郎の描彩とされるもの。
〔伝統〕木地山系
木地山系の工人たち、佐藤兼一、佐藤秀一、三春文雄、小野寺正徳、佐藤達雄、高橋一成など多くの工人が樋渡治一の型の再現を試みた。
〔参考〕