遠刈田において、木地職人と木地物販売業者(木地商)との間で取り行なわれた制度。
あらかじめ木地物の工賃を定めておき、木地商は職人たちに木地材料や木地用資材、動力等を提供し工賃制で生産させ、その代償として仕送り通帳を介して生活必需品を供給する制度である。
明治40年、吉田瞬治は遠刈田新地に水力による共同作業工場を設立、佐藤松之進、治平、広喜、円吉等を職人として仕送り制度を実施した。しかし当時としてはあまりに野心的な計画であり、水量不足のために口クロが思うように回らなかったことも手伝って、一年ほどで失敗、解散した。明治42年北岡仙吉、小室万四郎(丸万)の木地商が吉田木工所の失敗にかんがみて、工場を持たない形での仕送り制度を実施した。すなわち木地商が直接営林署から原木を払い下げ、これを各々の職人に分配して自宅で挽かせ、これらの木地製品の工賃を定めて、職人の生活必需品は通い帳によって自店から購入させるようにした。これによって木地商は職人から木地製品を安く納めさせ、反対に職人へ確実に自店から生活必需品を購入させることができて、二重の利益を得ることが出来た。また職人の側からすれば雇用条件たる木地物工賃はほとんど木地商まかせであったため生活は楽でなかった。
こうした事情から、明治末年から新地木地職人の不満が大きくなり、ストライキが行われた。ストライキは二日間で終わったが、その結果木地物の工賃を二割上げることに成功した。しかし大正末期や、昭和4、5年の不況には再び木地物の工賃が引き下げられ、職人たちは「店さがり」と称して木地商に多くの借金を残すこととなった。
このような仕送り制度のもとで、遠刈田新地の工人は二派に分断された。一方は北岡商店で、寅治、直助、周吾、治平、豊治、吉五郎等、他方は丸万商店で、茂吉、円吉、文平、松之進、吉郎平、丑蔵等が属していた。当時北岡商店と丸万商店はお互に競合関係にあり、職人たちも両者間であまり行き来しなかったという。このように仕送り制度は遠刈田木地業において見られる特徴的な制度で、同木地業自体に大きな影響を与えた。
なお。菅野新一著〈山村に生きる人々〉によれば、「木地屋のストライキ」が行われたのは大正6年5月と記載されているが、このストライキでリーダー格であった佐藤丑蔵や佐藤治平がそのあと遠刈田を離れることになったことと、その年代を照合するとストライキは明治40年代に行われたとみるべきかもしれない。
仕送り制度は木地屋の生活に影響を与えただけではなく、遠刈田のこけし自体にも大きな影響を与えた。他の産地のこけしは同じ系統であっても作る工人の家々で、かなり作風に幅があり、工人の個性が現れるのに対して、遠刈田では画一化が徹底していて工人ごとの作風の振幅が小さい。これは木地商による支配によって、ある種の規格の統一とその品質管理が徹底されていたことによると思われる。