鉄本友三

鉄本友三(てつもとともぞう:1947~)

系統:鳴子系

師匠:佐藤俊雄/伊藤松三郎

弟子:

〔人物〕昭和22年11月22日、宮城県玉造郡岩出町池月鵙小森の農業 鉄本運蔵、こよしの五兄弟の三男として生まれた。昭和37年3月、一栗中学校を卒業後、千葉県市川市のプラスチック工場に住込みで就職した。半年程勤めた頃に工場の油圧が破裂する大事故が発生した。人命より効率優先の会社の経営方針に疑問を感じて退社し、実家に戻って家業の手伝いをした。
昭和38年5月より鳴子温泉の及川正夫商店に勤めるようになった。友三の姉が及川正夫商店に勤めていたので母親が及川に頼んで就職することになった。5月に及川正夫商店に入るとすぐに佐藤俊雄に就いて2ヶ月程こけしの木地を習った。その後、俊雄が独立のために及川を離れたので、及川正夫商店主は、自分の店でこけしを扱っていた伊藤松三郎に頼んで、昭和38年7月に友三を弟子入りをさせた。佐藤俊雄の独立は昭和39年4月と文献には掲載されているが、もう少し早い事となる。或いは、辞めた時期と独立した時期と10か月程タイムラグがあるのかもしれない。松三郎の家には11月の中旬まで毎日バイクで通い、主に描彩を師事したが、足踏み轆轤を教えて貰う事もあった。当時、
既に松三郎は中心作者の一人であったが、少しも偉ぶる事なく、懇切丁寧に接してくれた事は、鮮烈に覚えている、雪が積もらなければ、もっと通いたかったと語っていた。
友三は、昭和38年9月から自作こけしを作り出し、10月から及川正夫商店で販売を始めた。当時の給料は4000円と安く、青年会に入会していたので付き合いも多く給料の値上げを懇願したが、認めて貰えなかった。夜になると鳴子温泉のホテルや旅館にこけしを持ち込んで旅行者、修学旅行の生徒達への販売も仕事の一環であった。将来に対する不安もあり、昭和39年3月末に及川正夫商店を辞めて4月より自衛隊に入隊した。これ以降こけし界との関わりは一切なくなり、昭和41年6月の及川工場の火災も知らなかった程であった。
また、〈こけし辞典〉等に高橋いと子の木地を挽いたとされているが、面識は無く他人の木地を挽いた記憶は無いとの事である。職人をしていた大沼健伍の事はよく覚えている。
その後紆余曲折あったが、平成5年に氏家友子と結婚して70歳を超えても仙台で会社勤めを続けた。平成8年には脳梗塞で入院したが、休日は大好きなカラオケに夫婦で行くのを楽しんだ。

鉄本友三 

〔作品〕こけしの製作は昭和30年代後半の限られた時期であったが、残っている作品は当時の伊藤松三郎を忠実に写した由緒正しい作風のこけしであった。

 
〔右より 18.3㎝(昭和38年)、21.2㎝(昭和39年)(中根巌)〕

〔伝統〕鳴子系金太郎系列

〔参考〕

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