佐久間亀五郎

佐久間亀五郎(さくまかめごろう:生年不明~1836)

系統:土湯系

師匠:佐久間作兵衛

弟子:佐久間弥七

江戸中期土湯に生まれた。木地業佐久間作兵衛(三代)の長男。家号は稲荷屋。稲荷屋は祖先の作兵衛の時代に二本松往復時、狐に助けられたのにちなみ命名したという。亀五郎は、化政当時会津藩と二本松藩を結ぶ交通の要地として、また湯治場として栄えていた土湯の重要な木地屋として活動した。文政10年の君ケ畑系氏子狩には土湯の木地師として渡邉源五郎、加藤重蔵、陳野原彦平とともに佐久間亀五郎が応じている。
川俣代官所へ凶作救助米の申請を近村名主たちと行ったとき、嘆願書の執筆をほとんどの名主たちがしり込みした中で、若干25歳であった土湯名主の亀五郎が恐れることなく名文達筆で嘆願書をしたため救助米の受領に成功したという。土湯の旧家稲荷屋の当主としての実力を備えていた。
土湯の木でこは亀五郎により創始されたとされ、天保年間に亀五郎が伊勢参りをした際、上方の宿場等で見た木地製品に刺激されて作ったという〈木でこ・2〉。

福島こけし会〈木でこ・2、3〉

妻女キジとの間に弥七、濱吉らが生まれた。弥七は稲荷屋を継ぎ、濱吉は西屋に養子に入った。
亀五郎は天保7年11月5日没した。こけしの作品は未確認であるが、弥七ー浅之助に続く土湯でこの源流にあたる。
下掲稲荷屋の家に残る過去帳を見ると、稲荷屋の家督は代々作兵衛あるいは弥七を襲名していた。亀五郎は家督であるのに、この過去帳では亀五郎のままであるが、一方土湯興徳寺の過去帳には「妙心本覚清信士 天保7申11月5日 稲荷屋弥七 亀五良故」とあり、亀五郎も家督名は弥七であったと思われる。

稲荷屋の過去帳


稲荷屋の墓(右:作兵衛、左:亀五郎・弥七)

 

 

〔参考〕

  • 佐藤泰平:土湯でこ研究〈木でこ・2〉福島こけし会(昭和34年)
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