八鍬長蔵(やくわちょうぞう:1897~1968)
系統:肘折系
師匠:鈴木幸之助
弟子:
明治30年9月27日、肘折の八鍬長作の長男に生まれた。大正2年ころ鈴木幸之助について一年ほど木地を習い、その後約二年間、葉山官行(葉山において国費でおこなった造林・製材事業、官行とは政府が国費で国有地以外で造林,森林の管理,材木の保護などを行うこと。)で父長作が計画した製椀工場のための製材、製椀の玉切りなどをやった。
大正6年ころ、父が肘折の上手の永代橋ぎわに、水車を動力とした型挽きによる木地工場(八鍬製椀工場)を作り、川連久保から樋渡周次郎を職人として招いた。長蔵はこのとき、周次郎より型挽きを学んだ。大正7年には川連へ行き、佐藤直蔵の挽物工場で機械挽きの型挽きを指導していた川添民之助に師事した。この間、肘折の八鍬製椀工場には、川連の東海林富蔵が職人として来ていた。大正12年に長蔵は肘折へもどった。翌13年、肘折に電気が入って自由に挽けるようになったのを機会に、製椀工場の水車を電動機に替え、弟の長治、長太郎に型挽きを教えて椀類を挽いた。水車では冬季凍結することがあるためであるが、電気代がかさんで結局採算がとれず、翌14年には工場を葉山官行の近くに移して、再び水車で椀を挽いた。しかし火事で焼け、長蔵以外はみな見切をつけてやめた。15年には長蔵一人が肘折で電気を使って挽いたが、これも採算がとれず、結局これで製椀は中止した。なお、八鍬製椀工場で挽いた椀木地は、秋田県川連および福島県会津若松へ主に出荷したという。また椀のほかに茶托、木皿なども少しだが挽いた。木地をやめた
後は、農業を主として狩猟などもやったが、昭和37年12月に脳溢血で倒れ、昭和40年4月3日、73歳で没した。こけしは幸之助の弟子時代に少し挽いたことがあるというが、作品は未確認である。