明治44年5月8日、お薬師様の植木市当日に発生した火災は、山形の市街地北部を焼き尽くして、「市北大火」と呼ばれている。この火災により、官公庁や金融機関等主要な施設を含めた市街地北部のほとんどが焼失した。焼失戸数1,240という。小林倉治が欄干や擬宝珠を挽いた山形県庁もこの時に焼けている。
焼失した山形県庁や県会議事堂は大正5年に新築されるが、それに合わせて大々的な奥羽連合共進会が開催された。これは奥羽六県連合で順次行われた6回の共進会の後に市の復興のために山形市主催で特別に開かれたものだったと思われる。会期は大正5年9月22日より10月31日までで、来場者は86万人を超えて大盛況であった。
山形県主催であるため、山形からの出品が多かったが、こけし関係では大井沢の工人 志田五郎八や肘折の商店主 尾形政治による挽物細工の出品がある。
また、堀田高湯(蔵王温泉)からは岡崎代助名義で挽物玩具が、宮村(遠刈田)からは吉田畯治、佐藤伝内が、青根からは佐藤菊治が挽物玩具を出品している。伝内が弥治郎(八宮村)ではなく宮村になっているのは、八宮の誤り、あるいは父栄治が修業した繋がりで伝内が宮村(遠刈田)で仕事をしていたかであろう。〔参考〕
- 山本陽子:地方博覧会・共進会とこけし産地の木地業〈きくわらべ・5〉(令和3年4月)