芥子人形

江戸時代に流行した小さな人形。芥子はその種が小さいことから極く小さいものという意味で用いられる。
貞享3年(1686)刊の、〈雍州府志〉には、「木彫りの人形に衣装を着せたもの」とあり、当時は京都中心に作られた豆人形を芥子人形と称したらしい。
山田徳兵衛の〈日本人形史〉にも「早くは雍州府志から、幕末の書物にわたって、芥子人形といふのがみえる。芥子人形は広く行われ、寛永二年五月豊竹座上演の金屋金五郎後日雛形の舞台の図を見ても、人形屋の店先に『萬人形屋 ひいな色々 けし人きょう はたか人形 いしょうきせ品々あり』の如く見え、裸人形とともにありふれた人形であったらしい。芥子人形といふ言葉は多少意味を違えて用ひたやうであるが、小さい人形といふ意味に用ひたのは同じである。小さいといっても、江戸時代の人形は概して大手であったので、極小といふ意味ではない。」とある。

金屋金五郎後日雛形の舞台の図

井原西鶴の〈好色一代男〉には、「小箱をさがし、芥(けし)人形、おきあがり、雲雀笛を取そろえ」とある。小さくかわいらしいものとして江戸中期以後盛んに愛玩された。江戸においては大型の雛人形に対して小形のものを芥子雛と呼ぶことがあった。また、江戸の今戸や、向島などでは土焼きの箱庭人形のことなども芥子人形として作られていた。一方、箱根では木製のごく小さな人形を組にして、「御芥子人形」として売っていた。
有坂與太郎の〈玩具叢書〉(日本玩具史篇)には「芥子人形の発祥は決して新らしくなかった。〈好色一代男〉には『小箱をさがし芥子人形云々』とあり、〈傾城風流杉盃〉江戸の巻(下図)にも『あやまりて芥子人形の頭をの中へ入れさせ・・・ほそき管の先にふきやのごとき紙を付、御耳へさしこみをき、くだの木口より、けし人形のあたまをすひ付』と見えるので享保以前に行はれてゐた事に疑義がないが、事実上流行したのは寛政以降であった。」とある。

 

「傾城風流杉盃」江戸の巻

寛政9年(1797年)に刊行された東海道名所図会(全6冊の5冊目)には「箱根名品挽物細工 街道湯本村にあり花美なる諸品を細工して色々彩り塗て店前に飾る又雛の芥子人形の細工をしおらしくして纔(わずか)方寸の箱に百も二百も入れる也。湯本伊豆屋の店諸品多し又前栽に流しの 枝左右に八九間も伸ばしたる梅の名木あり。」の記載がある。また与謝蕪村の「隅々に残る寒さやうめの花」の句なども添えている。左頁の絵には「箱根湯本挽物店」として伊豆屋の様子が描かれている。挽物(ロクロ製)の芥子人形も存在したことが分かる。箱根の芥子人形は、3.3cm四方の箱に「百も二百も」入るというのだから極小さなものだった。それは長い旅の道中を持ち帰っても嵩張らず、近在の人たちに土産として配るのに適したものだったのかもしれない。

東海道名所図絵 伊豆屋

オランダのシーボルトもこうした芥子人形とされる小人形を蒐集して、持ち帰っており、「御芥子人形」と書かれたその包紙とともにオランダのライデン国立民族学博物館に保存されている。これはごく小さい衣装人形のように見える。

御芥子人形 シーボルト採集

この「御芥子人形」が「こけし」の語源という説があり、「こけし」は「御芥子」からの転化、あるいは木で作った芥子人形「木芥子」からの転化などの説がある。
また、東北の遠刈田や土湯の木地師達が伊勢、金毘羅参りに出かけたことは記録に残っているが、その折に箱根の伊豆屋などでこうした挽物の芥子人形を見たことがこけし製作の契機となったとする説がある。

〔参考〕


箱根木地細工に触れた文献 (鈴木照男作成)

  • 新編相模風土記(天保11年)には「鏇匠(ひきものし)ありて、家々専ら是で鏇裁す。山中往々製造すれども概して湯本細工と呼べり。その器は凡そ墨樹、饌盆、果盤、茶盞、香合、烟合、烟盆、圓盆等の類。又は児童の玩具。総て転軸の裁器。皆当所の産なり。」とあり、挽物の玩具類も作られていたことが記録されている。
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