嶋津幸子

嶋津幸子(しまづこうこ:1934~2021)

系統:津軽系

師匠:嶋津彦三郎

弟子:

〔人物〕昭和9年9月18日、青森県弘前市薬師堂の農業白鳥半三郎、ハチイの長女に生まれた。名前の幸子は「こうこ」と読む。
昭和32年4月に大鰐の木地業嶋津誠一と結婚した。
結婚後まもなく目屋人形(西目屋村で土産物として作られ始めた郷土人形)の作者角田永太郎に師事して、人形の描彩を二年間程習った。永太郎と嶋津家は、誠一の父彦三郎の代から付き合いがあり、永太郎の郷土人形の木地などを嶋津の木工所で挽いていたこともあった。郷土人形の描彩を学んだ幸子は、昭和34年頃から誠一の木地に、こけしの描彩も行うようになった。胴にはあやめ模様を描いた。
誠一と幸子の間には、長女純子(昭和34年6月1日生)、長男誠(昭和36年6月22日生)、二女香(昭和41年6月14日生)の一男二女がいる。舅の彦三郎のあやめ模様のこけしは幸子が担当していた。あやめの葉は墨で描いた。昭和44年に舅の彦三郎が亡くなってからは、誠一名義で大鰐こけしが作られたが、描彩は幸子が担当した。ただし誠一名義のあやめの葉は緑を用いた。また眼にも下瞼を加えて描くようになった。
誠一名義のこけしのうち、蒐集家からの特注品や復元依頼品には誠一が描くことがあったが、一般の注文品は殆どが幸子の描彩であったと言われている。
幸子は平成10年頃からリュウマチを患って通院を続けていたが、平成27年頃より車椅子での生活となった。平成27年に自家ならびに工場が火災となり、誠一は津軽こけし館に通って木地を挽くようになったが、挽いて持ち帰った木地に、車椅子の幸子が絵付けを行っていた。平成30年頃から体調が悪化し静養していたが、令和3年4月6日に没した。行年88歳。

〔作品〕嶋津彦三郎、誠一名義のこけしのかなりの部分は幸子が描彩したものである。
また蒐集家の依頼で幸子名義で作ったものもある。下掲の二葉はいずれも幸子名義で蒐集家の手に渡ったもの。


〔右より 25.0cm(平成11年5月)、24.6cm(平成17年4月)(中根巌)〕


〔右より 24.5cm、24.7cm(平成17年4月)金次郎型、25.7cm(平成17年4月)三上型(中根巌)〕

系統〕津軽系大鰐

〔参考〕

  • 中根巌:嶋津幸子さんの死を悼む〈木でこ・236号〉(令和3年7月)
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