押切忠輔

生年没年は不明。山形県北村山郡市野々(現在の尾花沢市市野々)の生まれ。明治30年代に鳴子の高橋勘治の弟子となり、約3年ほど修業し働いた。こけしの製作も行った。兄弟子に菊地英次郎、菊地三九郎兄弟がいて、菊池兄弟が挽く時には忠輔が綱取りをしたという(柴崎丑次郎談)。
その後、市野々の親類の家と養子縁組の話があり、郷里に戻った。
また、大正になって山形県銀山で木地技術の導入があった際には、忠輔も木地講師となって指導を行ったともいう。忠輔のこけし作品は確認されていない。

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