千葉友一(ちばゆういち:1961~)
系統:鳴子系
師匠:遊佐博志
弟子:
〔人物〕昭和36年10月22日に宮城県栗原郡栗駒町の農業千葉茂、トヨ子の3人兄弟の末子として生まれた。父の茂は米作も行っていたが、高い利益率のいちごと大根の収穫に力を入れた。友一は栗駒町立栗駒中学校を昭和52年3月に卒業後、4月1日より鳴子の岡崎斉吉(こけしの署名は才吉)の六男博志に弟子入りし木地を学んだ。入門は鳴子町町長だった寺坂二男(てらさかつぎお)より勧められた。寺坂は友一が小学校時代の校長先生で千葉家とは家族ぐるみの付き合いをしていた。岡崎博志にとっては生涯一人だけの弟子だったので公私に亘って面倒をみてくれた。入門時に博志は既に結婚していたが、昭和55年頃に遊佐家の養子となった。友一は入門直後に博志に連れられ岡崎斉吉に挨拶に行ったが、極度に緊張して何も話せなかったことを鮮明に覚えている。こけしは入門3年目から描彩を練習して、8年目の昭和58年24才の頃より店頭に僅かながら置くようになった。博志は湯元に「才吉の店」を経営していたが、昭和58年に「岩下こけし資料館」を新築して移った。昭和56年頃から数年間「岡仁」を弟子上がりした松谷新吉と一緒に働き、その溌溂とした作風に影響を受けた。平成3年9月29才の時に鳴子町川渡出身で鳴子観光ホテルに勤めていた湯山さつきと結婚し、2男に恵まれた。
平成9年1月に遊佐博志死亡後は、木地挽きの中心工人として岩下を支えたが本人の描彩は減った。平成23年の東日本大震災の後、岩下を辞めなければならない状況となり、心ならずも転業した。高速道路関連の仕事に就き、その後岩出山の食品会社に就職した。現在でも遊佐博志の事を人生の師と仰いでいる。友一は人懐っこい素直な人柄で、令和4年2月後半には11年振りにこけしを作った。
35年間こけしを作り続けたが、ガイドブック等に氏名が掲載される事がなく、また木地挽が殆どで描彩を余り積極的に行わなかったので蒐集家の手元に残る作品は多くはない。
〔作品〕遊佐博志の様式を継承してこけしを作った。作り始めのころから現在まで作風に大きな変化はなく、技術は安定している。
〔右より 18.5cm(令和4年2月)、18.5㎝(令和4年2月)、18.4㎝(平成4年)、22.0㎝(昭和59年)、18.3㎝(昭和58年)(中根巌)〕
〔伝統〕鳴子系共通型
〔参考〕
- 中根巌:千葉友一の事〈木でこ・240〉(令和3年1月)