千葉県出身の君塚柳造が、石田雄治という名で大正11年頃岩手県花巻町に開設した木工所。最初に働いた職人は、遠刈田から来た佐藤文作で大正14年頃。その弟の佐藤文助が文作に代わって職人に入った、しかし文助も間もなく辞めたので、及位から佐藤善作を職人として招いた。大正15年5月には花巻の照井音治が入って職長となり、昭和2年7月善作が函館へ行き、及位から佐藤英吉が職人として入った。昭和4年頃、佐藤好秋が3ヶ月ほど働いて福島県の平に去り、その後に佐藤正吉が来たがこれもまもなく辞め、秋田県川連から来た椀職人佐藤正治も長続きせず、昭和9年3月には佐藤英吉も辞めて函館去った。その後東京出身の君塚忠三もまもなく登別へ去った。職人の出入りが激しいのは景気が悪くて賃金不払いが甚だしかったためという。昭和11年にはついに閉鎖した。その後の君塚木工所はこれの後身にあたる。