佐藤治郎

佐藤治郎(さとうじろう:1915~2006)

系統:遠刈田系

師匠:佐藤円吉

弟子:大沼昇治

〔人物〕 大正4年7月13日宮城県刈田郡福岡村の農業、木須春五郎三男として生まれる。尋常小学校卒業後しばらくは実家の手伝いをしていたが現役兵として入隊、除隊後大阪の住友工場で働いた。昭和15年遠刈田新地佐藤円吉三女やいと結婚し婿養子となった。昭和18年より養父円吉について木地修業した。昭和22年円吉亡き後は、佐藤文助に手直しを受けながらロクロを踏んだが、昭和24年からは北岡商店の工場に勤め、主に新型を挽くようになった。
昭和29年1月に自家の工場に動力ロクロを据え付け独立した。昭和31年からは大沼昇治が弟子入りして、昭和44年3月に独立するまで同工場で働いた。治郎は平成15年頃までこけしを作り続けた。平成18年4月20日没、行年90歳。

佐藤治郎 昭和36年 撮影:露木昶

佐藤治郎 平成3年

〔作品〕 昭和18年頃、麻布時代のたつみ等から円吉宛に注文を受け、その注文品を製作していたが、その殆どが豆こけしということもあり円吉の作との判別は困難である。戦後も昭和22年頃より小寸を中心に製作を再開したが、その作品は円吉晩年の様式を受け継いだものだった。
北岡工場に入所してからは眉間が広く眼点も大きくなり、新型の影響の強い大味なものになったが、独立後は頭形は球形に近く、面相はちまちまとした繊細な筆のものに変化した。昭和38年から円吉の胴をくびらした梅こけし(通称「円吉型」)を復活させ、頭形はやや縦長であった。描彩はこの時期あたりからやや筆太に変化した。昭和50年頃からは目の上下瞼を接した描彩となり一種独特の雰囲気を持つものとなった。
平成の時代になってから筆力は弱くなったが、養父円吉の在世時の作の雰囲気にやや甦り一部の蒐集家を喜ばせた。

〔12.0cm(昭和22年頃)〈浅賀八重子旧蔵〉〕
〔12.0cm(昭和22年頃)(浅賀八重子旧蔵)〕

〔24.1cm(昭和31年)(庄子勝徳)〕
〔24.1cm(昭和31年)(庄子勝徳)〕

〔右から18.5cm(昭和62年),(17.9cm(平成6年)(庄子勝徳)〕
〔右から18.5cm(昭和62年)、17.9cm(平成6年)(庄子勝徳)〕

上掲右端は円吉が作った弥治郎風の枝梅のこけしを復元したもの。

〔伝統〕 遠刈田系吉郎平系列茂吉家。後継者に大沼昇治がいたが既に亡くなり、茂吉家のこけしは現在廃絶している。

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