佐久間芳雄

佐久間芳雄(さくまよしお:1921~1996)

系統:土湯系

師匠:佐久間由吉/佐久間芳衛

弟子:佐久間俊雄

〔人物〕   大正10年1月15日、佐久間芳衛の長男として福島市早稲町9-20に生まれる。尋常小学校卒業後祖父由吉、父芳衛について木地挽きを修業した。その後、横浜鶴見の芝浦製作所木型部で旋盤工として働く。昭和19年応召、同20年11月に帰還し木地業を再開した。昭和32年5月芳衛が死亡し、11月に作業場を改造、由吉が使用していた足踏みロクロを解体した。この時期より由吉こけしの木地を挽くようになったが、それを機に芳雄自身のこけしを初めて30本程作った。以後木型等を専門に作り、こけしは作らなかったが、福島市内の土産物店勉強堂の勧めがあって、昭和47年より本格的にこけしを作るようになった。
昭和54年から58年10月まで息子の俊雄と不和になり、一時的に市内方木田に引っ越した時期があった。早稲町に戻った後も注文に応じて平成初頭までこけしを作り続けたが、体調を崩して次第に入退院を繰り返すようになり、平成8年2月24日75歳で亡くなった。

佐久間芳雄 昭和35年 撮影:露木昶

佐久間芳雄 撮影:佐藤 健兒朗

佐久間芳雄 撮影:佐藤健兒朗

〔作品〕 由吉在世時及び初期のものは晩年の由吉と同様赤の濃い染料であった。描彩も慣れていないため全体的に稚拙な印象を受ける。昭和50年頃より筆が慣れて胴をやや太くするようになり、描彩と造形に進歩があった。方木田時代の作も同種のものであるが、やや緊張感に欠け散漫気味な作となった。再び早稲町に戻ってからは浅之助型等各種作り続けたが造形・描彩共に作柄は低下した。出来の良いものは方木田へ移る前の第一期早稲町時代のものに多い。

〔右より 21.7cm(昭和47年7月)、18.5cm(昭和48年頃)(庄子勝徳)〕
〔右より 21.7cm(昭和47年7月)、18.5cm(昭和48年頃)(庄子勝徳)〕

〔9.8cm(昭和53年)(橋本正明)〕
〔9.8cm(昭和53年)(橋本正明)〕

〔伝統〕 土湯系湊屋系列

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