佐藤七之助

佐藤七之助(さとうしちのすけ:1900~)

系統:南部系

師匠:及川吉三

弟子:高橋幸三/菅野幸治/佐藤光一

〔人物〕 明治33年1月21日、岩手県江刺郡岩谷堂に生まれる。父は大工であったが、七之助は身体が弱く、家業を継ぐのが難しいと思われたので、15歳の時に及川吉三に師事してダライバンによる木地挽きを学んだ。
及川吉三はこの当時岩谷堂で、土地の有力者の支援を得て木地を開業していたが、大正8年に鱒沢村に移った。七之助はその後を引き受けて、木地業を継続し、大正11年に実家の大工の作業場の一画にダライバンを据えて独立開業した。当初は椀類を主として挽いていたが、のちに和傘のロクロ部分を簡単に挽ける芦川式傘ロクロ機を静岡から導入し、花巻の高橋悟郎、八重樫与五郎らと協定を結んで傘のロクロの生産を行った。
戦争が激しくなる昭和19年ころより農業に転業、戦後は開拓に従事して一町二反ほどの果樹園を拓いた。戦後は殆ど農業を主として行っていた。
木地の弟子には、高橋幸三、菅野幸治がいたが、ともに戦死してしまった。
長男の光一(昭和2年2月28日生れ)にも木地を教えたが、戦後は農業を行っていた。
佐藤七之助の没年月日は未確認。

岩谷堂の七之助の作業場跡

〔作品〕 大正時代に師匠の及川吉三とともに、焼絵のこけしを作ったというが、現物確認されていない。〈東北の玩具〉(仙薹鐡道局編纂)では佐藤七之助を岩谷堂町一日市町在住の作者として紹介し、「大正5、6年より製作」の記事を付している。
キナキナは桑で頭を作ったと七之助本人は語っていた。桑の樹液には薬効があり、子供がしゃぶれば病気知らずと言われており、また盛岡の寺沢政吉もキナキナには同様に桑の木を用いていたから、おしゃぶり材を桑で作ったという七之助の話には信憑性がある。ただ七之助作と確認できるキナキナは見つかっていない。
七之助作として現存するものは、岩手県工業試験場の技師岡安太郎デザインのこけしである。岩谷堂は箪笥の産地として有名であり、そのため岩手県工業試験場の技師たちがたびたび岩谷堂に指導に来ていた。岡安太郎もその一人であった。
下図二枚は、佐藤七之助が長く持ち続けていた岡安太郎の図案画である。図のわきには、「目の細くする事、鼻をかく事」「頬のあたりに赤で模様をかかない事、其の他のものも皆同じにする事」など注意書きが付いている。「岩手県商工館之印」が押されている。
なお、この図案は盛岡の安保一郎のこけし模様とも共通するところが多く、おそらく安保の盛岡こけしの創生にも岡安太郎は関わっていたと思われる。

岡安太郎によるこけし図案 その一

岡安太郎によるこけし図案 その一

岡安太郎によるこけし図案 その二

岡安太郎によるこけし図案 その二

この岡安太郎の図案により作成した佐藤七之助のこけしがらっこコレクションと深沢コレクションに残っていた。
らっこコレクションのものは図案の右端、深沢コレクションのものは図案の左端に基づいて作られている。
描彩は図案に基づいて描かれているが、運筆稚拙であり、商品として多作したとは思われない。


〔20.9cm(昭和8年)(三春町歴史民俗資料館)〕らっこコレクション

〔19.3cm(昭和13年)(深沢コレクション)〕
〔19.3cm(昭和13年)(深沢コレクション)〕

系統〕 木地の系統は南部系であるが、描彩のあるこけしは技師の図案により製作したもので伝統性はない。盛岡の安保一郎の描彩こけしもこうした図案によって描彩者が描いたもので、同様の製作経緯と思われる。

[`evernote` not found]