目次
本の概要
「蔵王東麓の木地玩具と小道具」は、白石の郷土玩具・民俗研究家、菅野新一が著した小冊子である。
昭和40年12月に初版が発行され、後に復刻版が発行された。復刻版は昭和43年9月22日第一刷(限定350部)、昭和45年4月20日第二刷(限定300部)を発行している。いずれも発行元は白石駅前の菊文。菊文は「きく文」の屋号で現在も白石駅前に店舗を構え、白石和紙・こけし・うーめんなど地元の名産品を販売している。
菅野新一と菊文は、昭和38年7月~昭和41年1月まで30回(昭和40年5月は休み)にわたり、約60名の頒布会会員に毎月蔵王東麓の木地玩具の頒布を行った。頒布にあたっては、東京こけし友の会の西田峯吉・土橋慶三・中沢えい(かねへんに栄)太郎・柴田長吉郎・浅賀八重子に相談をしたことが復刻版のまえがきに記されている。
さらに菅野の言葉を借りると同書は、”この頒布会を終わるに当って、菊文さんと相談して記念のために”出版されたものである。なお、復刻に際して菅野は説明の改訂や「産地別の木地玩具工人と木地玩具一覧表」の増補を行った。
表紙のカラー写真は作田栄利のあひる、口絵カラー写真は「遠刈田・青根・弥治郎・小原・白石の木地玩具」と題して各種木地玩具の群像が掲載されている。口絵白黒版は目次では「木地玩具のこけしに色をつける佐藤文助」とされているが、キャプションは「木地玩具を挽く佐藤丑蔵(遠刈田)」であり、実際の写真も提灯ごまを挽く丑蔵のようである。
頒布品
小冊子では個々の玩具の図版は白黒であったが、平成26年12月の東京こけし友の会例会の中古頒布・抽選・入札にこの「蔵王東麓の木地玩具と小道具」初版時の約60名への頒布品と思われる木地玩具が出品されたため、写真とともに紹介する。
頒布品の一部
東京こけし友の会 平成26年12月例会 中古品頒布
右手前に第23回頒布品「えずこ」菊池孝太郎(青根)が見える。
第24回頒布品「えずこ」佐藤文助(新地)、第12回頒布品「福禄寿」佐藤守正(遠刈田)、第21回頒布品「輪抜きだるま」本田亀寿(小原)、また右側の鳴子佐藤俊夫ねまりこ後方に第22回頒布品「ずんぐりごま」新山左内(弥治郎)等が見える。
第17回頒布品「ばけつと柄杓」新山左内(弥治郎)、第17回頒布品「ひょうたん笛」佐藤文助(新地)、第17回頒布品「小槌笛」佐藤好秋(新地)、第20回頒布品「起きだるま」佐藤好秋(新地)、第6回頒布品「四つ車」鎌田文市(白石)、第26回頒布品「色付き針差し」佐藤丑蔵(新地)、第14回頒布品「玉入れ柄」新山左内(弥治郎)、第16回頒布品「人形笛」鎌田文市(白石)、第13回頒布品「輪投げ」佐藤丑蔵(新地)、第21回頒布品「赤ごま・すじごま」佐藤富雄(遠刈田)、第12回頒布品「笛ごま」佐藤富雄(遠刈田)、第8回頒布品「福車」佐藤護(新地)、第12回頒布品「水がめと柄杓」新山左内(弥治郎)、第25回頒布品「大砲」佐藤好秋(新地)、第22回頒布品「デァボール」新山左内(弥治郎)、第18回頒布品「輪だるま笛」佐藤護(新地)が見える。第4回頒布品「傘ごま」新山左内(弥治郎)のように見えるものもあるが、本文の内容からすると新地の傘ごまのようである。
東京こけし友の会 平成26年12月例会 抽選
第13回頒布品「四つ車」佐藤好秋(新地)、第15回頒布品「えびコ」作田栄利(遠刈田)が抽選品に出品された。
東京こけし友の会 平成26年12月例会 入札
第7回頒布品「五つだるま」作田栄利(新地)、第24回頒布品「人形なわとび」佐藤丑蔵(新地)が入札品に出品された。
頒布および紹介された玩具・小道具の一覧
回数 | 頒布年月 | 頒布品(作者) |
---|---|---|
1 | 昭和38年7月 | 提灯ごま(弥治郎、新山久治作)・汽車(弥治郎、新山左内作) |
2 | 昭和38年8月 | えずこ(新地、佐藤丑蔵作)・唐人笛(遠刈田、佐藤文助作) |
3 | 昭和38年9月 | 八百屋かご(新地、佐藤丑蔵作)・りんご風ごま(白石、鎌田文市作) |
4 | 昭和38年10月 | 燈籠玉出し(新地、佐藤丑蔵作)・傘ごま(弥治郎、新山左内作) |
5 | 昭和38年11月 | 三福神(遠刈田、作田栄利作)・追っかげごま(弥治郎、新山久治作) |
6 | 昭和38年12月 | 糸引きごま(遠刈田、佐藤文男作)・鈴笛(弥治郎、新山左内作)・四つ車(白石、鎌田文市作) |
7 | 昭和39年1月 | 手品ごま(新地、佐藤丑蔵作)・五つだるま(遠刈田、作田栄利作) |
8 | 昭和39年2月 | 福車(新地、佐藤護作)・自動車(新地、佐藤丑蔵作) |
9 | 昭和39年3月 | 十二こま(遠刈田、佐藤富雄作)・あひる(遠刈田、作田栄利作) |
10 | 昭和39年4月 | だるま(新地、佐藤好秋作)・当てごま(白石市、鎌田文市作)・ばひふ除け(弥治郎、新山久治作) |
11 | 昭和39年5月 | 臼と杵(弥治郎、新山久治作)・釜風ごま(新地、佐藤文男作)・やみよ・唖鈴笛(青根、佐藤菊治作) |
12 | 昭和39年6月 | 笛ごま(遠刈田、佐藤富雄作)・福禄寿(新地、佐藤守正作)・水がめと柄杓(弥治郎、新山左内作) |
13 | 昭和39年7月 | 輪投げ(新地、佐藤丑蔵作)・四つ車(新地、佐藤好秋作) |
14 | 昭和39年8月 | 玉入れ柄(弥治郎、新山左内作)・巴柄(新地、佐藤照雄作) |
15 | 昭和39年9月 | えびコ(遠刈田、作田栄利作) |
16 | 昭和39年10月 | りんご菜入れ(新地、佐藤丑蔵作)・人形笛(白石、鎌田文市作) |
17 | 昭和39年11月 | ひょうたん笛(遠刈田、佐藤文助作)・小槌笛(新地、佐藤好秋作)・ばけつと柄杓(弥治郎、新山左内作) |
18 | 昭和39年12月 | 輪だるま笛(新地、佐藤護作)・たばこ入れえずこ(小原、本田亀寿作) |
19 | 昭和40年1月 | 白木茶道具(遠刈田、佐藤文助作) |
20 | 昭和40年2月 | 起きだるま(新地、佐藤好秋作)・日月ボール(弥治郎、新山左内作) |
21 | 昭和40年3月 | 赤ごま・すじごま(遠刈田、佐藤富雄作)・輪抜きだるま(小原、本田亀寿作) |
22 | 昭和40年4月 | デァボール(弥治郎、新山左内作)・ずんぐりごま(弥治郎、新山左内作) |
23 | 昭和40年6月 | だるま(弥治郎、新山左内作)・えずこ(青根、菊池孝太郎作) |
24 | 昭和40年7月 | えずこ(遠刈田、佐藤文助作)・人形なわ飛び(新地、佐藤丑蔵作) |
25 | 昭和40年8月 | 大砲(新地、佐藤好秋作) |
26 | 昭和40年9月 | 色付き針差し(新地、佐藤丑蔵作)・山梨ごま・おしゃぶり(新地、佐藤文男作) |
27 | 昭和40年10月 | どんころ(新地、佐藤好秋作)・よーよー(弥治郎、新山左内作) |
28 | 昭和40年11月 | 金着莨入れ(新地、佐藤護)・三っつ糸巻き(新地、佐藤護作) |
29 | 昭和40年12月 | すじ風ごま(遠刈田、佐藤文助作)・唖鈴笛(遠刈田、佐藤文助作) |
30 | 昭和41年1月 | うさぎの餅搗き(新地、佐藤丑蔵作) |
蔵王東麓のこけしと木地玩具
いわゆる伝統こけしは東北地方(および東北の作者が転出した地域等)にしか見られないが、二人挽きから一人挽きに移行した時期に蔵王東麓の産地でこけしと並んで作られた木地玩具の多くは遊びの道具として実用的で、当時の小田原の木地玩具にルーツを持つことが菅野の「まえがき」に記されている。以下に一部を引用する。
” ここで興味深いことは、こけし・えずこ・山梨ごま・うすなどの、この地方でも二人挽き時代からあった木地玩具は別として、その他の玩具類に関しては、前に書いた小田原が、遠刈田・青根・弥治郎などの先生株であった、ということである。つまり、明治十八年から遠刈田を皮切りに、いよいよ一人挽きロクロ時代になると、徐々に小田原産の木地玩具の影響を受けて、大正六・七年ごろになると、それが甚だしくなった。組み合わせ式の、いわゆる「動く木地玩具」は、殆んど全部といってよいぐらい、小田原ものを見本に取り寄せて、職人たちがみんなでよく見て、この地方に合うように作り直したものである。これがその後、遠刈田・鎌先・青根の新しい木地玩具として大量に作られて、温泉宿や温泉場のみやげ店などで、湯治場に集まった人たちにどしどし売り捌かれたのであった。”
同書巻末に掲載された「産地別の木地玩具工人と木地玩具一覧表」において、佐藤丑蔵の製作する木地玩具の種類は40を超える。これに代表されるようにこけし作者は玩具や日用雑器と並んでこけしを製作していたが、
“昭和の初めごろになって、セルロイドやブリキ製の大量安価な玩具がどしどし作られるようになると、だんだん売れ行きが悪くなり、同二十四年、五年ごろになると、そのうちの特殊なもの(こけし・えずこ・輪投げなど)は別として、次から次へと姿を消して行った。”
大人の蒐集家相手に生きながらえたこけしと違い、同じ作者が製作する木地製品でありながら、かつて先進であった多くの木地玩具は時代の移り変わりとともにその需要を失ってしまったのである。第2次こけしブーム以降はこけし専業の作者が増え、現在ではほとんど見ることのできない玩具もあることから、この頒布は木地屋の仕事の記録としても習俗の記録としても貴重なものだったと言える。こけしの製作に関連しているためと考えられるが、これら戦後に製作された木地玩具も彩色には基本的に、こけし同様に染料を用いている。
新地などの作者が如何にして見本となる木地玩具を入手したかであるが、青根の丹野倉治は明治15年頃から新地や箱根から木地製品を仕入れていた。明治18年に工場を設立して、東京の田代寅之助を招へいするとともに、箱根や日光の木地玩具、雑器を見本として移入したという。伊沢為次郎、でぶ寅(寅治郎)という箱根の木地師が伊沢を追って青根を訪れたのもこの頃である。伊沢らはまだ二人挽きをしていた東北の地に一人挽きの新技術を伝え、明治20年代頃の青根や新地には弥治郎や新地、蔵王高湯など各地の工人が集まり技術を研鑽した。一人挽きの習得は木地挽きの効率を向上するだけでなく、華やかな巻絵の色付けを可能にした。つまり、技術とデザインが同時期に箱根・小田原方面より流入し、蔵王東麓の木地玩具や小道具の製作に大きな影響を与えたのである。特に弥治郎系のこけしの描彩は一人挽きへの移行とともに、それまでの簡素な手描き模様から巻絵を主体とした模様へ一変したと考えられる。
伊沢はこけしを作らなかったというが、例えば「うなゐの友」掲載の大山の臼と杵には図案化された菊模様があしらわれており、このような箱根・小田原方面の玩具の彩色が新地など東北のこけしの胴模様の描彩に影響を与えていたかどうかも興味深い。
菅野新一の木地玩具関連の著作
菅野は木地玩具関連の書籍として、本書以降に昭和41年「東北の木地玩具-新地・弥治郎・鳴子を中心として」(郷土玩具研究シリーズ第1期第三巻、発行・郷土玩具研究会)の著・監修、昭和51年発行の「日本の木地玩具」(編集・季刊「銀花」編集部、発行・文化出版局)の監修を務めた。
また、「蔵王東の木ぼこ 版画と解説」の初版は昭和17年8月発行、昭和45年に未来社より復刻されたが、ここでも弥治郎や新地の旧来の木地玩具を挿絵とともに紹介している。
菅野がこけし蒐集や研究のフィールドワークを行ったのは地元白石を含む蔵王東麓であったが、東北地方で明治以降に木地玩具が発展したのも遠刈田新地を中心とした蔵王東麓であったため、この分野の研究において菅野は第一人者となった。