佐藤留治(さとうとめじ:1871~1929)
系統:木地山系
師匠:小椋養治
弟子:
〔人物〕 明治4年秋田県小安温泉に生まれる。雄勝郡の水上沢より明治31年に川連大館におりてきた木地師小椋養治(小椋泰一郎の父)は、時々山仕事で小安の奥に入り、小屋をかけて椀木地を挽いていた。 留治はそうした折に養治について二人挽きの木地の技術を学んだ。こけしや独楽を挽いて、小安の温泉場で売った。特に独楽作りは得意であったという。後に見取りで足踏みロクロの技術も身につけ、晩年は専ら一人挽きで製品を作っていたという。
留治の存在は、伊藤儀一郎を追いかけていた深沢要の小安訪問によって知られるようになった。そして深沢は「人は湯元に二軒の木地屋があったことさえも、忘れようとしているのである。(中略)何れにしても小安の土産として伊藤の外に、留治のこけしが鬻がれていた事実をはじめて知り得たのは深き喜びである。〈こけしの微笑〉」と書いている。
佐藤留治は伊藤儀一郎より11歳年長であるが、二人はほぼ同じ時期に二軒の木地屋として小安で仕事をしていたのだった。
留治は昭和4年6月2日に59歳で亡くなっている。
なお、小椋泰一郎の姉よしのが嫁いだ佐藤留治(佐藤兼一の父)は同名異人である。
〔作品〕 深沢要は、小安訪問の際に留治の古びた小品を手に入れている。この小品を届けた人は、今14歳になる自分の子供の小さい時に買い与えたものと言っていたそうである。おそらく大正末期の作であろう。
いま、鳴子の日本こけし館に陳列されているこのこけしを見ると、全体に黒くなってはいるが、さらりと描いた前髪と鬢、そして向かって右の一筆目を確認することが出来る。胴には菊が描かれているのがわかる。形態は頭部がほぼ丸い球体であることを除けば、肩に段のある作り付けなど、基本的に泰一郎の形に近い。 小椋養治のこけしを忠実に継承したのであろう。
深沢要は、この留治のこけし写真を〈こけしの微笑〉の巻頭口絵に掲載している。
〔10.6cm(大正末期)(深沢コレクション)〕
〔系統〕 木地山系。 留治の伝統を継承するものはいない。