神尾長三郎

神尾長三郎(かみおちょうざぶろう:1845~1919)

系統:山形系

師匠:小林倉治

弟子:神尾長吉/武田春吉/武田卯三郎/神尾長八

〔人物〕弘化2年10月7日、山形県北村山郡東郷村大字泉郷の農業神尾長三郎長男としてに生まる。神尾家は代々長三郎を名乗っていた。明治11年34歳のころ、山形の小林倉治に入門し木地挽きを修業した。長三郎の妻は北村山郡沼沢村出身のリツで、小林倉治の妻シユンの妹にあたる。倉治のところでは弟弟子に奥山安治、鈴木米太郎がいた。
明治20年ころ年期明けしたが、長三郎は主任格であったのでしばらく倉治のもとに留まり、倉治の息子達が一人前になるのを見届けてから、明治26年頃に天童市三日町の建勲神社門前に土産店を開業して独立した。こけし、こま、茶入れ、盆・椀等を作った。
明治35年に暴風があり、天童市久野本にあった自宅が破壊されたため、久野本に工場を建てて木地業を再開した。長女リンの婿春吉や、長男長吉がこの工場で働いた。薄荷入れを主体として主に山形市七日町の薬種商吉野屋に納めていたが、長三郎はこけしや木地玩具、また仏器なども盛んに作ったという。
大正4年には山形の小林吉次のもとに修業に出していた春吉の長男武田卯三郎も戻り、大正6年には小林倉吉の所で修業していた次男長八も年期明けで帰ってきて彼らが木地業を引き継いだ。
大正8年8月13日久野本にて没、行年75歳。

神尾長三郎

〔作品〕確実に神尾長三郎の作と判明している作品はない。しかし一尺以上の大きなものを作り、模様は松竹梅を描いたという。長三郎のこけしは小林倉治からの伝承であったと思われるが、本当に長三郎が松竹梅を描いたかはわからない。ただ後継となった武田卯三郎は松竹梅を描いていた。
精力的にこけし研究を進めていた深沢要は、昭和10年に久野本の民家から一本の黒くなった古こけしを発見して、その経緯を次のように書いた。
「久之本では、こけしのぐんと古いものを手に入れた。あの時、おそらく心からの微笑が私の満面を揺り耀かしていたことと思う。黒光りの味と寂さえたたえている。私はこのこけしを見る度にあの久之本訪問の半日をなつかしく回想すると共に、このこけしを持ち遊んだ子供のことを想像するのである。やがて子供は大人となり、このこけしを愛した何人かの人はもうこの世には、いないのではないだろうか。御世話になった神尾長ハの外に天童の土地にも敢てお礼をいう。〈こけしの微笑〉」
下掲の黒いこけしが深沢要の発見になる久野本の黒こけしである。〈木の花〉を刊行していたこけしの会が昭和53年に神奈川県立博物館で開催した「こけし古名品展」にも「久野本不明」として出品された。描彩は殆ど見えないが、ほぼ尺に近い堂々とした こけしである。発見場所および推定制作年代からおそらくこのこけしは神尾長三郎作であろうといわれている〈山形のこけし〉。


久野本 古こけし〔29.5cm(推定:明治末期)(日本こけし館)〕 深沢コレクション

上掲の写真は昭和45年夏、〈こけし辞典〉に掲載するために当時保管されていた鳴子町役場の二階で撮影したが、いま鳴子の日本こけし館にはこのこけしは展示されていない。おそらく何本かのこけしとともに館の倉庫内にまぎれて保管されていると思われるが、もう一度展示される日が来ることを期待したい。

〔伝統〕山形系 長三郎は一人挽きが山形に伝わった後にも引き続き倉治の元でこけしを作り続けていたので、作並系から山形系が分岐したあとの様式でこけしを作ったと思われる。

〔参考〕

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