青根木地業

青根木地業史は 比較的新しく、文久年間(1861~1863)に 遠刈田新地の佐藤周右衛門と佐藤文吉の二人が二人挽きロク ロの技法を、時の伊達13代藩主伊達慶邦公の御覧に供したことに始まる。し かしこれは御殿湯に滞在した伊達公の前で遠刈田の工人が技を披露したに過ぎない。
青根温泉の本格的な木地業は明治18年に始まっ た。この年8月に青根の土産物商丹野倉治が 佐藤仁右衛門旅館の裏手に木地細工工場を設立し、東京から田代寅之助を招聘して、その弟子佐藤久吉、同茂 吉、同重松、槻田与左衛門、菊地勝三郎、 佐藤幸太等を職人として営業を開始した。 つまり青根木地業は完全な遠刈田および各地の木地師を糾合することによってスタートした。製品は最初から温泉客の土産品として作られたもので、遠刈田や横川 のような大物はほとんど作らなかった。玩具、 雑器等の小物専門であり、浴客の出入りの 多い夏期のみの営業であった。
明治26年 丹野工場に対抗して小原仁平が、佐藤仁右衛門旅館の前に木地工場を新築し、遠刈田 新地より佐藤七蔵、寅治、直治を雇い入れ 営業を開始した。やがて直治は仁平の婿養子とな り、経営をまかされると、大々的に職人を雇って 事業を拡大した。この明治26年ごろから 同39年ごろまでが全盛時代で丹野工場の久吉と小原工場の直治がその 中心人物として青根木地業を牽引した。これらの工場の木地製 品は蔵王高湯・白石・仙台・秋保・山形・飯坂 方面にまで販路を伸ばした。
明治39年4月7日青根温泉で大火があり、旅館2館、駐在所を含む5戸48棟が焼失した。
この火災が一つの契機となって、職人たちの多くが遠刈田へ引き上げたために、徐々に木地業の規模は縮小していった。丹野工場では久吉の長男久助を中 心として、小原工場では直治が佐藤貢、真壁鍛造を弟子として、菊地孝太郎や佐藤菊治はそれぞれ独立して木地業を続けたが、わずかに地元の需要の一部を満たすにすぎず、多くは遠刈田や箱根方面から木地物を仕入れて温泉客に売っていた。
昭和に入ってからも青根木地業はいぜん不振を 続けたため、昭和7年佐藤菊治、菊地孝太郎 の二名が中心となって青根木工組合を設立し、木炭エンジンによるロクロを取り付けて営業を開始した。こけし、玩具、茶入れ等を盛んに作って販売したが、3年後には運行不能に陥り、昭和14年春工場一切を売却して解散した。
その後青根では木地業としての活動はほとんど見られなかったが、昭和22年ごろより佐藤貢、須賀恒一等が新型ブームに乗って営業を始め、菊地孝太郎、佐藤菊治等も木地を再開した。佐藤 忠、重一、博典、我妻芳夫等もこれに加わり、戦後はほとんどこけし専門に営業した。

青根温泉絵葉書 湯守不忘閣佐藤仁右衛門旅館、この裏手に丹野工場が、前に小原仁吉工場があった。

青根温泉絵葉書
湯守不忘閣佐藤仁右衛門旅館、この裏手に丹野工場が、前に小原仁吉工場があった。

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