秋山一雄

秋山一雄(あきやまかずお:1935~1991)

系統:蔵王高湯系

師匠:秋山慶一郎

弟子:

〔人物〕  昭和10 年9月9日、山形県鶴岡市大字太宝寺の秋山慶一郎、きんの四男に生まる。中学へ入学したころ(12歳ごろ)より父慶一郎について木地を習いはじめた。兄の清一もこのころ木地を挽きこけしを作っていた。鶴岡市八坂町の木地問屋、丸金商店の下請として新型こけしの木地を挽くかたわら、父慶一郎よりの伝承による伝統こけしを製作した。昭和30年代前半までは新型の木地が大部分であったが、30年代後半から比重が逆転し、伝統こけしが主力となった。この時期に村木せつの木地を挽いたこともある。昭和35年11月に結婚、妻は和子。昭和39年に父慶一郎が亡くなってからは伝統こけしを中心に製作した。
気分的に好調不調の波はあったが、時にバランスよく表情にも張りのある見事な作品を作った。平成3年4月15日没、行年57歳。

右:秋山一雄 左:秋山慶一郎 撮影:露木昶 昭和34年
右:秋山一雄 左:秋山慶一郎 撮影:露木昶 昭和34年

作業場の秋山一雄 昭和44年
作業場の秋山一雄 昭和44年

木地を挽く秋山一雄
木地を挽く秋山一雄


秋山一雄 昭和46年秋 東京こけし友の会旅行会にて 撮影:武田利一

〔作品〕 父慶一郎の作品を忠実に継承してこけしの製作を始めた。初期の作は個性の目立たないおとなしい作風であった。〈こけしガイド〉で作者として紹介された。


〔右より 14.9cm、18.4cm(昭和30年代前半)(北村育夫)〕

昭和39年2月に父慶一郎が亡くなったが、父の死期が近づいた頃から、後継者としての自覚をもって作品に取り組むようになった。昭和40年〈こけし手帖・53〉の「新工人紹介」のコーナーに取り上げられた。ここで土橋慶三は「おそらく、慶一郎の死期が近づくにつれて慶一郎の魂が、彼一雄に乗り移っていったのであろう。でなければ、こんな迫力のある生き生きとしたこけしが生じるはずはないと思う。」と書いた。
昭和39年12月作を取り上げた〈こけし 美と系譜〉においても、「父亡き直後心機一転して張り切って作った快作で、往時の慶一郎をしのばせる作風である。」と書いている。作風は昭和39年前後で一変した。
下掲8寸は、〈こけし辞典〉掲載品で、〈こけし 美と系譜〉よりやや早い9月作である。


〔24.2cm(昭和39年9月)(橋本正明)〕

 昭和44年になると、慶一郎古作をも研究するようになった。下掲写真の右は深沢コレクションの昭和11年復活初作の慶一郎を復元、その量感あるフォルム、緊張感あふれる面描を十分に再現した。

〔右より 30.3cm(昭和44年)、24.5cm(昭和44年)(橋本正明)〕
〔右より 30.3cm(昭和44年)、24.5cm(昭和44年)(橋本正明)〕

〔21.5cm(昭和51年)(橋本正明)〕 名古屋こけし会10周年記念
〔21.5cm(昭和51年)(橋本正明)〕 名古屋こけし会10周年記念

下掲の9寸は亡くなる2年程前の作であるが、面描の張りも衰えず、量感あふれる秀作であった。


〔27,8cm(平成元年1月)(北村育夫)〕

系統〕 蔵王高湯系

〔参考〕

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