毛利専蔵(もうりせんぞう:1916~2003)
系統:津軽系
師匠:毛利茂太郎
弟子:毛利昭一/村元文雄
〔人物〕 大正5年11月26日、青森県南津軽郡山形村温湯温泉72木地業毛利茂太郎・すえの長男として生まれる。茂太郎につき木地を修業、昭和14年橘文策により〈こけしと作者〉で名前のみ紹介された。昭和16年木村永作長女たまと結婚、多くの子をもうけた。このうち四男昭一は専蔵について木地を学び、昭和46年頃よりこけしを製作するようになった。また、昭和32年には黒石市の村元文雄が弟子入りし、こけしを作るようになった。
昭和58年に木取中に中指を負傷するまで、こけし・ずぐり等の木地玩具を作り続けた。その後も少数ながら62年頃まではこけしは作ったという。平成15年1月14日没、行年89歳。
〔作品〕 昭和14年の作品が、〈こけし・人・風土〉で初めて写真紹介されたが、肩のこけた三角胴の襟付こけしであった。同じ時期のものでは目が一重で、胴をくびらせたもの、または上瞼にまつ毛を数本描かれ、胴はアイヌ模様が描かれたものが残っている。下掲の深沢コレクション蔵品および寺方徹旧蔵品にもまつ毛を描いている。
〔18.2cm(昭和15年頃)(日本こけし館)〕 深沢コレクション
この時期のあるものには秀太郎の代作が含まれているかもしれない。また木地専蔵、描彩秀太郎で、専蔵名義で蒐集家の手に渡ったものも多かったようである。
戦後は当時の秀太郎風の面描にボタンが2段描かれた胴模様のものを標準型としていたが、妻女たまとの合作がほとんどである。昭和30年代以降、山谷きよの木地下を挽いた関係か作品の雰囲気がよく似ていた。昭和40年代に蒐集家の依頼により、山谷太兵衛などの温湯古作の復元を試みたが、表情張りがあり、ねぶたの役者絵のような表情の佳品であった。
〔右より 10.8cm、25.0cm(昭和44年10月)(橋本正明)〕宮藤就二の依頼による復元
復元作以外は、概ね下掲写真のような作風で、盛秀太郎の戦後の様式を取り入れたものが主流であった。中央のものには山谷きよの影響、左端のものには山谷藤吉型の影響がある。これらの描彩はほとんど妻女たまが行ったと思われる。
〔 右より 30.3cm(昭和59年)、30.3cm、24.0cm(昭和50年頃)(高井佐寿)〕
〔伝統〕 津軽系温湯系列。弟子には村元文雄がいたが亡くなり、四男の昭一は現在転業中である。
〔参考〕
- 中根巌:毛利茂太郎と専蔵名義のこけし〈木でこ・236号〉(令和3年7月)