山尾武治(やまおたけじ:1902~1971)
系統:遠刈田系
師匠:佐藤三蔵/菅原庄七
弟子:山尾昭
〔人物〕 明治34年6月30日、水戸屋旅館山尾今朝三郎五男として秋保町湯元字薬師に生まる。大正5年より佐藤三蔵に弟子入りして同7年まで木地挽きを修業した。師三蔵はこの頃すでにこけしは全然作らなかったため、兄弟子菅原庄七のこけしを見て覚えた。以前、秋保村立職工学校で、木地挽きを教えていた鳴子の遊佐幸太郎を頼って、大正10年頃に鳴子に修業に行ったが、どの店も職人として雇わなかったため、岩手県九戸郡九戸村山根の木地講習会で修業して、同11年ころ帰郷した。以後秋保を離れず木地挽きを続け、昭和17年ころには長男昭も一時木地を挽いた。戦後もこけしを作り続けたが、昭和46年6月13日病を得て没した。行年70歳。
〔作品〕 山尾武治初出の文献は、昭和14年〈木形子〉とされているが、その名は以前からすでに紹介されているようである。〈こけしと作者〉所載のものでは明らかに菅原庄七型で緑ロクロ線を入れ、髪飾りの極端に多い頬紅の赤が目立つものであった。一部収集家には不評であったが、〈古計志加々美〉はむしろ庄七を凌駕する妙趣ともいっている。
〈こけし鑑賞〉所載の久松蒐集品は、あるいは大正期の伝山尾武治(大正11年帰郷後か)であるが、筆勢の鋭い、目の切れた傑作であった。ただし、武治作と確定されたものではない(項目末尾の写真参照)。
〈愛蔵図譜〉の秋保作者不明という大名物もあるいは武治かもしれず、この工人をひそかに高く評価する収集家は少なくない。
また、大正期の伝武治とされた注目すべき作は、果たして本当に武治のものであるのか、製作年代は本当に大正期にまでさかのぼれるのか、研究の余地がある。
確実に山尾武治作の物では、昭和初期の小野洸旧蔵品〈伝統こけしとみちのくの旅〉とここに紹介するらっここれくしょん〈古作図譜〉所載および米浪旧蔵品などが初期の代表的な作であろう。
〔30.8cm 、12.2cm(昭和初期)(河野武寛・米浪旧蔵)〕
下掲は深沢コレクションの二本で、戦前のもっとも典型的な武治のこけしである。表情は雄渾でたくましい。このころ長男の山尾昭も当時14歳でこけしを作り始めていた。
〔右より 24.5cm、11.8cm(昭和15年)(日本こけし館)〕深沢コレクション
しかし昭和10年代後半になってからの作、とくに戦後のものは一般的な嗜好に沿ったためか、運筆がやや機械的になり、彼本来の持ち味と変わってしまった。長女昭子の描彩によるものも多いという。また息子夫婦の描彩のものもあり、どこまで彼一人の作なのかつきとめ難い。
〔伝統】遠刈田系秋保亜系。
長男の昭、孫の広昭、裕華夫妻もこけし製作を行っている。
〔参考〕 〈こけし鑑賞〉で伝山尾武治と言われた秋保古作