大泉清見

大泉清見(おおいずみきよみ:1936~1980)

系統:弥治郎系

師匠:本田亀寿

弟子:

〔人物〕  昭和11年11月11日宮城県刈田郡小原村の小原郵便局局長代理小原清四郎、とみの次男に生まれる。大浦久一の甥にあたる。父清四郎は清見が3歳の時に急死した。
少年期は大変苦労して、母の実家や親戚の家を転々としながら成長し、小学校卒業前の6年生の中途から鎌先の石膏山に働きに出た。その後も日銭稼ぎの仕事を次々に行なっていたが、母の実家のある明戸の大浦忠吉の世話により、昭和26年秋16歳より、小原の本田亀寿の弟子となることが出来た。そのころ亀寿の家には、既に中風で手足は不自由になっていたが父の鶴松もまだ元気にしていた。清見の父は鶴松のために手紙の代筆や代読をしていたことがあったので、清見の弟子入りの話はトントンとまとまったという。家から通って約2年半修業を続けた。
昭和28年白石に出て、主に新型の木地を挽いたが、新型業者間の引き合いもあり、白石中町の山田木工所、上野の北村民芸、白石の高沢肇や猪狩勝彦の工場、前橋の北村民芸第二工場、白石の菊文などを転々として働いた。
昭和40年30歳で大浦忠吉の孫娘朝子と結婚、白石市桜小路に新居を構え、翌年には長男信義が誕生した。家庭をもって落ち着くと、伝統のこけしを作りたいという気持ちが強くなり、昭和45年の秋に師匠亀寿の門を再び敲いて、亀寿の型をしっかりと学びなおした。昭和46年春、亀寿ととも白石のこけし研究家菅野新一を訪ねて挨拶し、こけし工人として出発することができた。
亀寿型のこけしを製作すると共に、数々の木地玩具も製作した。30種ほど作ったが、伝統的なものもあり、また清見が考案した玩具もある。
昭和55年12月10日心筋梗塞のため没した、行年45歳。この年テレビで放映された小物玩具作りが好評で注文が続き、無理をしたのが体調に響いたという。


大泉清見  昭和54年

〔作品〕 亀寿の型を継承した。下掲写真2本は極初期のものだが、作品としては完成している。右端のように弥治郎の古い様式を踏襲した作品も作った。
若くして亡くなったのが惜しまれる。


〔 右より12.5cm、13.8cm(昭和47年)(橋本正明)〕


〔24.0cm(昭和55年)(高井佐寿)〕

〔伝統〕 弥治郎系栄治系列

〔参考〕

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